このブログはノンフィクションです。私と同じ様な被害に遭われた方が読まれるとフラッシュバックする内容があります。ご注意ください。
学童期小学1年〜4年
その頃、父親は私の裸の写真を撮りたがりました。この年齢になると裸になるのが恥ずかしい事だとわかっていたので凄く抵抗しました。声を震わせながら「お願いだから許して下さい」と何度もお願いしました。海の中の岩の上や山の草むらの中でポーズを取らされ写真を撮りました。子供の頃の身体は汚れなく綺麗だから写真に残しておきたいと言っていました。なぜか家に外人の女の子達の裸の写真集が何冊かありました。その写真集の中の女の子のポーズを真似するように指示されました。その写真の中の少女達は爽やかなイメージはなくきついメークをして子供らしいとは言えない異様な雰囲気でした。後から母親に聞いたのですが写真集は書店から父親が買ってきたものだと言っでいました。その頃は子供の裸の写真集は合法だったのでしょうか?だとしたら驚くべきことです。1980年前後の日本は児童性愛を容認していたということです。
《大嫌いだった頃の写真を見ることは辛くアルバム開くことが怖かったのですが、三十年経った今、ようやく実家から持ち帰り小さい頃の自分を見る事が出来ました。そこには私が想像してた女の子よりもずっと可愛く(顔が可愛く思ったのではありません笑。)無邪気な笑顔で写っていたことに嬉しさと切なさを感じました。もっと早く子供の頃の自分を愛してあげることが出来なかったことに胸が痛くなりました》
この頃も理不尽なしつけという名の暴力や罵声は続いていました。私は橋の下で拾われた子供だとよく冗談混じりに父親からからかわれていました。私は本当に拾われて来たんじゃないかと思うようになりました。私には本当は優しいお父さんとお母さんにいて必ず迎えに来てくれる。そうあって欲しいと願うようになっていきました。何度も母親に確認しましたが、その度にあなたは私が産んだ子だと言われました。
父親が仕事から早く帰った日はやはりお風呂は父親と入るように決まっていました。いつまで一緒に入らなければいけないのだろうと思うと悲しくなりました。
勉強もスポーツも周りの子に負けては両親をがっかりさせてしまうと思い自分なりに一生懸命頑張りました。毎年、学級委員長にも選ばれそれを両親に報告すると両親が誇らしげでまた喜ばせることをしなくてはと頑張りました。頑張ってお利口にすることで、この家庭での私の居場所を確保できると考えていました。
小学5、6年
夜、寝ているとなぜか人に触られている感じがして目を覚ますと手の温もりが身体に残っていてる。横では父親が眠っている。そんなことを繰り返しながら行為は少しづつエスカレートしていきました。
初めは私の勘違いかな、と思っていました。でも確実に胸や下腹部を触られた感じがあり気持ち悪く思いました。ある時寝たふりをしているとやっぱり父親の手が私の胸や下腹部を撫でていました。私が目を開けるとその手はさっとひっこめられました。私は寝返りを打ってみたりしながら嫌な気持ちを誤魔化していました。嫌とは言葉にすることは出来ませんでした。
何度もそんなことがあるうちに私にとっては特別なことでは無くなっていきました。次第にいつも好き放題に振る舞う父親がこそこそしていることに腹が立つようになっていきました。
私は心は完全に父親に支配されていました。父親は独裁者でした。教祖のように父を慕う母親。私は心は例えるなら地下に住む奴隷でした。地下は寒く薄暗くジメジメしておりたくさんのネズミ達が這いずり回っています。その隅っこで私は膝をかかえて小さくうずくまっていました私の発言権などはまったくなく父親の気分で地下から時々地上に出してもらえそんな日は眩しい世界に心弾ませました。父親の考えと違うことを言ってしまったり父親の機嫌を損なう出来事ことがあれば途端にまた地下に戻される。そんな環境で毎日、父親の顔色を伺いながら父親との距離を測りながら生活していました。それは母親も同じでした。母親はよく地下に暖かい出来立てのおやつを持ってきてくれました。でも決して地下から出してくれる事はありませんでした。
そんないつも自存心やプライドが高い傲慢な父親が私の身体に触れるときは私の様子を伺い私の寝ているのを確認し触ってくることに苛立ちを感じました。私が無防備なときにするのは何故なのだろうか、常に正しい父親が私にしていることはそんなに秘密にしておかなければいけないことなのか。いつも私に「お前の為のしつけだ」と言って体罰を加えていた父親が私の為にならないようなことをするはずはない、堂々と毅然な態度ですればいいことではないのか。と。
無理矢理ではありませんでした。
私が身を差し出すかたちでこの時は生涯自分が苦しむことになる大変なあやまちであることとは知らず日常化していきました。気がつけばいつの日からか最後の一線も超えることになってしまっていました。
当時、平屋で台所の隣がわたしの部屋でした。私のベットに父親は仕事が早く終わると入ってきては私の体を舐め回し満足そうに優しく声をかけてきました。今までの暴力的で言葉汚くののしる父親とは別人でした。私はこんなことは大したことではないと自分に言い聞かせ目をつぶり父親がやめてくれるまで我慢しました。気持ち悪くくすぐったく何をされているのかよくわかりませんでした。
でも嫌に思いながらも私はこれで良かったのだと思うようになっていきました。これでやっとこの家の中で安心して生活できる居場所を作ることが出来たと思いました。今考えると本当に単純で馬鹿だったと思いますがその当時の私には父親の機嫌をとる事が最優先と思い私自身も自分の中での善悪の判断より父親に従う事を選んでしまいました。私の身体も少しづつ変化していき恥ずかしいことですが父親との行為によってオーガニズムも感じるようになってしまいました。
いつものように父親が私の布団に入って私の性器を舐めているとき母親が部屋に入って来たことがあります。
母親はカッとなった悲鳴にも似た声で「何をしてるの!!」と言い部屋を飛び出して行きました。父親は慌てて身なりを整え母親を追いかけて私の部屋を出て行きました。私は心の中で何度も母親に謝りました。
しばらくすると父親が戻ってきました。私が「お母さんは何て言ったの?」と問いました。私がお腹が痛いと言うので見てあげてたと言ったら信じてくれたと。そんな子供じみた言い訳が通じたのかと信じられませんでした。母親はこの時から知っていたのでしょうか。
母親が留守のときはいろいろな部屋で行為をしました。ある時、母親のドレッサーに裸になって四つん這いになっている自分の姿が映りました。鏡の中の女の子は冷ややかな眼差しで私を見ていました。私は見ないで欲しいのに女の子は私から目を反らせてくれませんでした。もう一度、鏡全体を見返しました。私のお尻の背後に父親の姿も映っています。そこにはこの世のものとはおもえないような汚らわしい醜い光景が写っていました。身体の内側から込み上げてくる憎悪に胸が苦しくなりました。鏡の中の女の子が自分なのだと理解するのにしばらく時間がかかりました。
私自身、成長とともに少しづつ変な世間とずれているような違和感を感じるようになってきました。父親に何度もこれは間違った事じゃないのかと聞きましたが、父親に他の家でもよくあることで特別なことではないと言われて私も考えることが面倒くさくなっていきました。今更、父親から逃れられることも出来ない諦めと他の子もしているのだったら仕方のないことなんだと言い聞かせている部分と母親を裏切っていることで母親にも頼ることが出来ない孤独感で引き返すことが出来なくなっていました。何もより厳格な父親がそれほど悪いことをする訳がないと信じていました。
親友のお父さんが病気で亡くなりました。私は委員長だったのでクラスの代表で告別式に参列させてもらいました。親友が凄く落ち込んでいるのに私は優しい慰めの言葉をかけてあげることがで出来ませんでした。告別式に参列させてもらった私に「来てくれてたよね、ありがとう。」と言ってくれた彼女に「学級委員長だから仕方なく行った」とか、私の家族を羨ましがる言葉には「父親なんか必要ないじゃん。」と酷いことを言って口喧嘩になりました。そんな酷いことを言ってしまった私に今も友達でいてくれている彼女に感謝しています。最近ようやく過去の性虐待のことを話し当時のことを謝ることが出来ました。
小学生だった彼女には親友の思いやりのない言葉は人生を狂わせる様なショックな言葉だったと思います。
6年生の時、性器とその周辺が真っ赤にただれました。オロナインをしばらく塗りましたが酷くなる一方で皮膚科で診て貰いました。母親から診断結果は汗疹だったと聞かされましたが今思えば性病だったと思います。生理がきていない女のコの性器はバイ菌から守る力が弱く性病にかかりやすいそうです。治るまでに1ヶ月かかりました。
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