性的虐待‥性虐待はなぜ起きる

私は実父親に幼稚園から中学2年まで性虐待を受けて育ちました。一見普通に見える家庭内で起こった犯罪。私の家庭で何が起こっていたのかを冷静に振り返りこれからの子供達を性的虐待から守ることが出来るのか、不幸にも私と同じ様な体験をしてしまった人達には何が必要かを考えて行きたいと思います。

ブログに訪れた方はまずこちらをご覧下さい。

30年間理解のなかった母親が理解ある母親になる事に必要だった事④

【この記事は母親へ理解を求めていつかは自分を産んでくれた母親なのだから私の痛みをわかってくれるはずと頑張っていた頃に書いたものです。1年近くかけて話し合った結果、私の望む母親像は彼女の中にはありませんでした。残念な事ですが、被害を打ち明けた14歳の時に守ってくれなかった時点でその事は証明されていたのに、私自身が受け入れるのに30年もかかってしまったようです。どうか娘から家族の中に加害者がいる事を打ち明けられた時は全力で娘さんを守ってあげて下さい。どうにか取り繕って家族を続けていけるのではないのかという甘い考えは捨てて下さい。打ち明けた時の周りの大人の対応でその後の被害者の心の回復は大きく変わってきます】

 

 

前回の続きです。

 

昨年12月、幼少期から中学2年まで私が受けた父親による性的虐待を叔父(母親のお兄さん)に打ち明けて以来、母親は一変しました。「私が読んだ『毒となる親』を読んで虐待がどんなものか、受けた子供の気持ちはどんなものなのかを考え知って欲しい」と本を贈りました。その本には心理的虐待、身体的虐待、性的虐待、ネグレストについてわかりやすく書かれており親子関係の間違った価値観にハッとする気付きを教えてくれる私にとってのバイブル本です。

 

(私の受けた性虐待は 性虐待① 性虐待② 性虐待③ に詳しく書いています。リアルな内容もありますのでフラッシュバックに気をつけて下さい)

 

今回もいつもの様に何かしら言い訳を付けうやむやに終わらしてしまうのだろうと思って半ば諦めモードで贈った私でしたが、読んでくれました!!やっと私が苦しみながら生きてきた現実に目を向けようとしてくれました(^O^☆♪

 

今回は諦めずにアプローチした甲斐がありました!やったあ!!!

 

って、なんでそこまで嬉しいの? 本を読んだだけなのにと思われると思いますが、虐待のあった家庭の親は自分の非を絶対認めないのです。

 

良い親はつねに自分の子育てはどうなんだろうと確認し、振り返りながら、反省しながら、親として成長する努力をし、不安になれば周りに相談したり、本などを読んでみたり、今の時代ならインターネットで調べてみたりすると思いますが、残念な事に虐待のある家庭では『親が正しい!』という前提で子育てが行われますから、反省などはありません。

 

子供の声に耳を傾けることは、子供に負けること。つねに子供の上に立っていなければいけない! 毒親アルアルだと思います(;ω;)   だから、子供から虐待の本を渡されそれを読むなんてことは、凄いことなのです。

 

現に私の母親は、性虐待被害児の母親でありながら、一度も調べてみたり、それに関する本を読んで見たりしたことがなかったのです。

 

叔父さんに「お前が悪い!」と言われたことで、目が覚めたようです。母親は男尊女卑の考えですから、自分の年の離れたお兄さんの言葉の影響力は大きかったようです。

 

母親は世間体を気にする人で、友達にも自分の弱点を見せず、相談することなどなかったので、誰も間違っていることを教えてくれなかったのでしょう。

 

本を読んでから、もっと変わりました。私の話に耳を傾けてくれるようになり、母親からいろいろ聞いてきてくれるようになりました。

 

先月2月4日、祖母が他界しました。最後は安らかに自宅で叔父さんと母に看取られながら息を引き取りました。享年98歳でした。

 

母親は自分のできること、全てをかけて最後の一年間、香川と徳島を行ったり来たりしながら、寝たきりになりアルツハイマーになってしまった祖母の介護をしました。目の前にいる母親を見ながら、自分の子育てのことを振り返ったそうです。死がそれ程遠い話ではない祖母の姿が、母親に考える時間と勇気を与えてくれたのでしょう。

 

母親はここ数ヶ月で本当に変わりました。過去を真剣に逃げる事なく理解しようとしてくれる強さがひしひしと伝わってきます。

 

私のこのブログも読んでくれました。数ヶ月前「いつまでも過去を気にしていたら前に進めない」と言い訳にして過去から逃げていた母親とは別人です。父親にもひるまない勇気を持って「お父さんは間違った事をしたよね」と言ってくれたのです。

 

母親が変わるのに必要だったことは、間違いを気づかせてくれる人や、本、苦しさに立ち向かい現実を受け入れる強さと勇気でした。

 

今までは傷つきたくない気持ちから自分の都合の良い言い訳を考え、言い訳に事実を擦り合わせ、傷つかない程度のところで自分を納得させて蓋をしていたんです。

 

私から父親にされたことを聞いた時も、ただ少し触るところを間違えただけのスキンシップだと片づけてしまい、たいしたことではない、と自分の受け入れられる範囲で処理してしまっていたのです。今回私の口から「挿入」と聞かされ、言い訳のしようがなくなったということのようです。

 

弱かったのは私も同じで、母親に伝える時、体の関係とか、少し含みのある言い方をしていました。それと過去を思い出したくないのもあって、すぐに理解してもらう努力を諦めていました。

 

人に伝える時には思い出さなければいけないので、少し過去の蓋を開けて、見てはいけないものを見てしまった時のように慌てて蓋を閉めてしまってました。第三者に知られるのも怖く、周りの人に言いだすことができなかったのもいけなかったと思います。

 

今回も叔父さんに言えてなかったら、たぶん母親も私も、今までしてきたような「偽りの仲の良い親子」のままだったと思います。

 

もっと早くに辛いと言えていたなら・・・

 

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母親はたくさんたくさん謝ってくれて「性虐待と向き合いながら、今後私の力になりたい」と言ってくれています。

 

「ゆかり、ありがとう」

 

「ゆかり本当にごめんね」

 

「お父さんのした行動がどれだけあなたを傷つけていたのか、正しく理解できていなかったこと、本当にごめんなさい」

 

 あー!!!凄く嬉しい!!!数ヶ月前にはこんなに理解してもらえるとは想像もしてなかったのですから(≧∇≦)

 

なのに私は欲深い! なんでもっと早くにわかってくれなかったのー!?と思ってしまうの

です(苦笑)

 

贅沢言っちゃあいけないですね!今の状況に感謝しないと〜〜☆私達、母娘やっと本当の親子になれるような気がします(๑╹ω╹๑ )

 

ん〜〜)^o^(頑張るぞ〜〜^_−☆

 

次は強敵!父親!の記事を書いていきます!

 

 

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30年理解のなかった母親が理解ある母親になるのに必要だった事③

【この記事は母親へ理解を求めていつかは自分を産んでくれた母親なのだから私の痛みをわかってくれるはずと頑張っていた頃に書いたものです。1年近くかけて話し合った結果、私の望む母親像は彼女の中にはありませんでした。残念な事ですが、被害を打ち明けた14歳の時に守ってくれなかった時点でその事は証明されていたのに、私自身が受け入れるのに30年もかかってしまったようです。どうか娘から家族の中に加害者がいる事を打ち明けられた時は全力で娘さんを守ってあげて下さい。どうにか取り繕って家族を続けていけるのではないのかという甘い考えは捨てて下さい。打ち明けた時の周りの大人の対応でその後の被害者の心の回復は大きく変わってきます】

 

 

 

 

前回のブログの続きです。

 

私が父親に受けた性虐待から後の30年間と、母親が過ごしてきた30年間はあまりにも考えの温度差があり、私は困惑しました。

 

母親に理解してもらうことは、もう私には不可能な作業のように感じました。母親にとっての30年は、性虐待などうちの家にはなかったかのようになっていました。

 

  (私の受けた性虐待は 性虐待① 性虐待② 性虐待③ に詳しく買いてます。リアルな内容もありますのでフラッシュバックに気をつけて下さい)

 

性虐待を理解してもらうのには、先ずは母の中にある父親(夫)に対する洗脳ともいえる支配からのコントロール、共依存、母親にとって父は常に正しく、夫を敬い尽くし生きていくのが私の存在価値だ、と信じている生き方考え方を変える事から始めなくてはいけないと思いました。

 

まさに男尊女卑社会を一つの家庭の中で実行してました。女性は口答えしないことが美しい姿だと思っていたところもあったのだと思います。 私にも父親への口答えは一切許されませんでした。(今思うと口答えというより、意見だったと思いますが、父親の考えと違う考えを持つこと自体がご法度、笑)

 

近所の主婦友達が旦那さんの悪口を言うのを聞くことがあっても、母親は一切、父親の悪口を言う事はありませんでした。(悪口を言わない事はもちろんいいことですが、現実、家庭内では理不尽な事からの暴力が頻繁にあったわけですから)

 

結婚してから47年間のパワハラからの洗脳を解くすべなど私にはわからず、もう諦めた方がこれ以上、母親の理解ない言動に傷つけられることもなく、心穏やかに生きていられるように思いました。

 

これから先の人生は親の存在を忘れ、住所も告げずに引っ越しをしようと決めました。(今は実家の隣に住んでいます)

 

そう決めても、やはり諦めたくない自分もいました。本当に不幸体質なんでしょうね。母親から傷つく言葉をどれだけ聞かされることとなるのかわからないけど、今回こそは、母親の洗脳を解いてあげたい!!

 

私は子供の頃からずっと、母親は可哀想な人だと思っていました。怒鳴られても叩かれてもどんなに家事を頑張っても褒められることはなく、母親は何が楽しく生きているのだろう、と一緒に住んでいた18歳まで、ずっと思っていました。

 

私は小さな頃、母親を今の生活から助け出したい。自由にさせてあげたい。私の大好きなお母さんを毎日笑顔にさせてあげたいと漠然と思っていました。精一杯おどけてみたり、笑わせたり、サプライズ的に喜ばせる事もあれこれ考えたことをうっすら覚えています。(楽しかった思い出はほとんど思い出せません。子供の頃の記憶は親から受けた嫌な事がほとんどです。楽しかったこともたくさんあったはずなのに・・・)

 

そんな母親に対する優しい気持ちも、父親からの性虐待を母親に打ち明けた中学2年、母親が私の味方になってくれなかった瞬間、瞬間冷凍されてしまいました。

 

14歳〜16歳位まで私は積み木崩しのごとく反抗的になり少しの事で切れて叫びまくってました。(心優しいゆかりちゃんはホントいなくなりました。こんなに急激猛スピードで反抗的になった私に、周りの大人は怒るばかりで、一人も理由を聞いてくれなかったな〜先生も)

 

母親に残された人生は後二十年か三十年かわかりませんが、正しい道を自分の足で歩み、生きて欲しい。それに気づかせてあげられるのは私しかいない、と思いました。

 

その頃の母親は週末は自分の家で過ごし、平日は徳島の実家に帰り、自身のお兄さん(私の叔父)と祖母の自宅介護をしていました。母親は自分の足も悪くしていて膝が痛いと言いながらも自宅介護を始めて一年間、先日祖母が亡くなるまで、一度も辛いなどと愚痴を言うことはありませんでした。本当に優しく、我慢強い母親なんです。

 

なのに、父親の罪を認めることができず、正面から向き合えない。父親を否定することは自分の結婚生活47年、すべてを否定することになるのでしょう。

 

母親に父親の性虐待がどんなものだったかを知ってもらい、理解してもらうことは、母親を苦しめ悲しい思いをさせてしまう事になるのか、

 

このまま父親に尽くしながら命終わるまで過去に向き合わず、生涯を終えることの方が母親にとっては幸せではないのか、という葛藤も強くありましたが、私自身、大好きな母親にどうか目を覚まして欲しいという願いから、私は母親にメールをしました。

 

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私 「今日徳島に行くので叔父さんと一緒に私の話を聞いて欲しい」
母 「 今は介護で大変なのでちょっと待って欲しい」

私    「いや、今だから聞いて欲しい。私、行くから」

 となかば強引に、祖母の家に向かいました。

 

今までのように過去に蓋をして仲の良い親子を演じるよりも、叔父さんにも聞いてもらう事で母親も私自身も、過去からは逃げられない、母と一緒にこれから先、傷つけ合うことになっても、それでも母親に理解してもらう努力を諦めない!と、決意しました。

 

九時近かったでしょうか、祖母はもう寝ていました。祖母の寝ている隣の部屋の食卓に叔父、母、私と座り、子供の頃からのことを私は話し、今後、私は実名を出して児童性的被害者を守り、これ以上被害者を出さない活動に携わりたい、と言いました。

 

今日、私が来る目的を母親から叔父さんに話してくれていたので叔父さんは私の話を冷静に聞いてくれました。その都度、母親に「なんで気がつかんのか!  それは、いつもそばにいた母親が気づいてあげるべきことだ。お前が悪い!」と言ってくれました。

 

母親は、「実名を出して受けてきたことを公表するのは待ってほしい。今はお父さんは自治会の方で責任がある事をしているから、それが終わるまで待ってほしい。じゃないと、みんなに迷惑をかけてしまう。そちらが片づいたら、お父さんときちんと話するから」と言いました。

 

この事にも叔父さんは「そんな事は今回のゆかりの話とは別の事で、待ってくれと言うことではない!」と、はっきり言ってくれました。叔父さんは細かいところまで説明しなくても、私の気持ちを汲み取りながら、話を聞いてくれました。

 

本当に嬉しかったな〜

 

私の事、理解してくれる人がいる。

 

中立の立場で話をしてくれる。話をしてよかったと、心底思いました。

 

私は「遅い時間までおじゃましました。おばあちゃんの介護で大変な時に、こんな話を聞いてくれ、ありがとうございます」と、徳島のおばあちゃんの家を後にしました。

 

伯父とは特別、交流が深いわけでもなく、今まで年に数回のペースで会うぐらいです。なのに母親よりも全然、話をわかってくれる。なんなんだろう、この違い。

 

母は何度も私に言います。「お父さんがあなたにしたことはいけないことだけど、いいところも他にたくさんある」

 

その度に私は悲しい気持ちになります。

 

良いことをしていれば、悪いことに対しての刑が軽くなるの?

 

だとしても被害を受けた者からみれば、そんな事は関係ありません。

 

ただあるのは、受けた被害のことへの心の傷です。

 

この犯罪を、あなたは「加害者の奥さん」の立場で見ていて、「被害者の母親」からの立場で見ようとしてくれてない。赤の他人が自分の娘を何度も言いくるめてレイプしていたら、相手にもいいところがたくさんある、など思うだろうか? 

 

良いところがあったと思うのは勝手だけれど、私には言葉にして言わないで欲しい。遠回しに「良い人なんだから許してあげて」と言われているようで、辛い。これって私の被害者意識が強すぎなのかな・・・

 

すいません、タイトルとズレ愚痴っぽくなりました:(;゙゚'ω゚'):

 

 

次のブログに続きます。

 

 

こんなつたない文章をたくさんの方に見ていただき申し訳なく思いながら感謝の気持ちでいっぱいです。

ありがとうございます。

色々な方に家庭で起こった児童性虐待を、知ってもらいたい。

もっと今まで本をたくさん読んで上手く気持ちを伝られるよう、勉強しておけばよかったと思います。まさかこんな日が来るとは思いませんでした。私自身、死ぬまで誰にも話せることではないと思ってました。

 

もし私と同じ境遇の方も見ていただいてましたら一緒に胸を張って生きて行きましょうね。と伝えたいです。

 

 

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30年間理解のなかった母親が理解ある母親に変わるために必要だったこと②

【この記事は母親へ理解を求めていつかは自分を産んでくれた母親なのだから私の痛みをわかってくれるはずと頑張っていた頃に書いたものです。1年近くかけて話し合った結果、私の望む母親像は彼女の中にはありませんでした。残念な事ですが、被害を打ち明けた14歳の時に守ってくれなかった時点でその事は証明されていたのに、私自身が受け入れるのに30年もかかってしまったようです。どうか娘から家族の中に加害者がいる事を打ち明けられた時は全力で娘さんを守ってあげて下さい。どうにか取り繕って家族を続けていけるのではないのかという甘い考えは捨てて下さい。打ち明けた時の周りの大人の対応でその後の被害者の心の回復は大きく変わってきます】

 

 

前回の記事の続き

 

昨年12月はじめ頃、仕事からの帰り夜、母親に「私、性虐待を受けて育った事を隠さず公表して、私のような被害者が今後出ないようにする活動をしていきたい。私のような被害者が、現実に実父から性的虐待をされていたことを言い出さなければ、事実に気づいてもらえない。なかった事になってしまう。お母さんに言ってはいけないと言われていたけど、もう約束を守れない」と告げました。

 

 (私の受けた性虐待は  性虐待① 性虐待② 性虐待③ に詳しく買いてます。リアルな内容もありますのでフラッシュバックに気をつけて下さい)

 

この時の母親の返事がまたまた予想外。

 

母「そんなにまだ悩んでるの?  うんと小さい頃の事でしょ」

 

私「小さい頃って中学二年までだけど」

 

母「嘘、幼稚園とかでしょ」

 

私「幼稚園の頃から中学二年まで。幼稚園の頃  だけだったら、挿入までにならんやん」

 

母「嘘、お父さんそんな事したの?」

 

え? この人何言ってんの? 何を今更・・・

 

もう私、何と言っていいのか、わからなくなりました。今まで何度か話したし、こんな重要な事、忘れられる人がこの世の中にいるの???

 

私が性虐待被害者をなくす活動をしたいとかと言う話より、母親は初めて知った、と言いながら、悲しみに打ちひしがれています。

 

え???  本当に知らなかったの?

ショック過ぎていつも記憶から消されるの?

忘れたふり?

にしては演技上手すぎだし・・・

 

 でも知らなかったのなら、今までの母親の、何もなかったかのように父親と生活していた事も納得できる。と言うことは、やっと知ってくれたのだからこれから変わってくれるはずだ。三十年間長かったけど、これでやっと、母親の愛情を感じて生きていける。

 

 今、目の前で、娘の受けてきた性虐待を知り、泣いてくれている母親こそが、本当の母親なのかな。

 

母親に対して、今まで持っていた不信感や絶望感などのわだかまりが消え、許すことができるように思いました。

 

母親に、幼少期から中学までの受けてきた被害をすべて話ました。母親はうつむいたまま、真剣に聞いてくれて「今まで気がつかずにごめんね。辛かったね」と言ってくれました。

 

三時間くらい話をして、夜11時近くになり、まだショックを受けて、うなだれた様子で心配だったのと、今は母親も父親の顔を見たくないと思っているだろうなと思い、私は「泊まってく?」と聞きました。

 

母親から出た答えは、私の予想を180度裏切りました。ニッコリしながら「あっ、もうこんな時間! 早く戻らないと、お父さんに心配かけちゃう。可哀想だから帰るね!」だって。

 

、、、、(´;ω;`)

なに言うとん(;o;)  可哀想って??

可哀想なんは私やろ?

 

心配かけるってここ、隣やし!

隣の娘の家におるんやし!

心配するかあ!!!

 

心の中で叫びました(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

 この人どこまで洗脳されてるの(泣)

 

天国から地獄に突き落とされるとはまさにこの事!!!  

 

ちょっと待て!!!

 

この時は、私も食い下がりました。いつもならこの時点で諦めちゃってました。母親が可哀想になってくるのと、これ以上言ったら、母親に嫌われちゃうんじゃないかとか、所詮母親も私じゃないんだから、私の気持ちなんかわかりっこない、と言う思いが先にきちゃって・・・

 

私「いつまでお母さんはこの問題から逃げるの? どうして正面から見ようとしないの?」

 

母「過去のことじゃない。いつまでも気にしていたら、前に進めないじゃない」 と言って、隣の父のいる家に帰っていきました。

 

私は母が帰った後、号泣しました。

私の人生なんなん!

 

ここまで自分の母に理解してもらえず何で産んだん!?  そんなに子供の立場になって考えんのやったら、産まんといてよ!

 

無責任すぎやわ! 

 

いつまで私は一人で苦しみ、立ち向かっていかなあかんの(泣)  

 

いつまで私の叫びを、母親は無視し続けとくん(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

 

 声を出して、大泣きしました。その夜は一睡もできませんでした。

 

次の日は目を腫らして仕事に行きました。四十半ばになってもまだ辛い。

 

なんなん私の人生.・・・

 

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次の記事に続きます。

 

 

 

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30年間理解がなかった母親が理解ある母親に変わる為に必要だったこと①

【この記事は母親へ理解を求めていつかは自分を産んでくれた母親なのだから私の痛みをわかってくれるはずと頑張っていた頃に書いたものです。性虐待から乗り越える為の大切な過程としてこの記事を残します。1年近くかけて話し合った結果、私の望む母親像は彼女の中にはありませんでした。残念な事ですが、被害を打ち明けた14歳の時に守ってくれなかった時点でその事は証明されていたのに、私自身が受け入れるのに30年もかかってしまったようです。どうか娘から家族の中に加害者がいる事を打ち明けられた時は全力で娘さんを守ってあげて下さい。どうにか取り繕って家族を続けていけるのではないのかという甘い考えは捨てて下さい。打ち明けた時の周りの大人の対応でその後の被害者の心の回復は大きく変わってきます】

 

 

 

七十一歳になる母親は、徳島県の田舎町に四番目の子として産まれました。

 

上の三人は男の子で初めての女の子だったので、両親からすごく大切に育てられたと聞いています。小さい頃から日本舞踊を習わせてもらってました。真面目で、清楚な感じの女の子だったのでしょう。地元の大学を出て教員免許を取り、今から社会に出るという時にお見合いをして、そのまま結婚してしまいました。

 

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社会に出たことのない母親は、すべてを父親に依存していました。金銭面もですけど、自分のふるまいや考え方、すべてを父親のいう通りにすることが良い奥さんだと信じて、実行していました。

 

父親に叩かれることがあっても父親のことを悪く言ったことはありません。自分に足りないところがあるから怒られているのだと思い、従うことで、自分の居場所を確保している感じでした。自分の親にも愚痴を言う事は一度もありませんでした。心配をかけてはいけないと思い、当時は何も言えなかったと言っていました。

 

子育てに対しても、父親のいう事をすべて実行していました。本当の母親の性格は優しく、人に手をあげたりするタイプではありませんが、父親に洗脳されていた母親は、父親と同じく言うことを聞かなければ、私に体罰をしていました。

 

無視もありました。とにかく些細なことでも思い通りにいかなければ、ヒステリーを起こしていました。仕事に出ることは父親から止められていましたので、教員免許を持ちながらも専業主婦でした。

 

自分に経済力が無かったことで本当に気の毒な人生だったと思います。

 

今現在は地域の行事やイベントのお手伝いしたりしています。愚痴を言わずに裏方に徹するタイプです。結婚相手が優しい男性なら、彼女は本当に立派な、優しい母親になれていたと思います。

 

二十代、三十代の頃の父親は、傲慢で理不尽な人でした。自分の思い通りにならなければ切れて怒鳴る、暴力をふるう。今思うと「かんしゃく持ちの子供」です。仕事のストレスを、すべて私達に向けていたのでしょう。当時、私は子供だったので、そんな父親でも大人にみえていました。

 

今、46歳の私は、当時の父親より年上になっているからでしょうか。父親を思い出すと、笑っちゃうくらい幼かったように思います。子供が親の年齢を追い抜くのです。

 

そう思うと、どうしてあの時はあんなことしたの? どうして? どうして? の堂々めぐりから、解放されました。

 

どうして?とか理由などはなく、ただ父親は自分の気持ちの切り替えができない子供、子供なので愛し方がわからず、まだまだ自分がいちばんに愛されたい。愛情を独占したい子供、いたって簡単な答えでした。

 

親はいつも自分の前に立ちはだかる人生の先輩じゃないことだってあるんです。

 

虐待をうけてた頃はあんなに怖かったのに(笑)

あんまりいうとまた怒られてしまうので、このくらいにしておきます。

 

でも、外面は違うようです。地方の一流企業で、それなりに昇進して頑張っていました。人徳があるように喋ることが得意です。地元のお寺を立て直す時には何百万もの大金を寄付したりして、周囲からは「素晴らしいお父さんですね!」といわれます。その度に私は心の中で、(みんな本当の事知らないもんなー)と思ってしまいますが(*´Д`*)

 

母親が性虐待の事を知ったのは、私が中学二年のときです。どうしても耐えられなくなり、母親に救いを求めました。中学ニ年の私は身体の造りも、名称もわからず、女性には尿が出るところと便が出るところの間に赤ちゃんが産まれてくるところがあることすら、自分では確認できていない子供でした。

 

父親にされていることも、実際に見たわけではないし、膣に挿入されているのがどんな状態なのかもわからないし、どう伝えたらよいのかもわからなかったけど、できる限りの言葉を一生懸命伝え、助けを求めました。

 

しかし母親にとっても父親が絶対だったので、信じることが出来なかったのか、私に他言しないようにと言いました。父親を許し、忘れるように、お父さんはゆかりが可愛くってした行動だったのだろう、と父親を擁護する言葉でした。

 

私も母親を裏切り、悲しませていることはわかっていたので、母親を責めることもできず、離婚して守って欲しかったけど、母親にハッキリと父親とは離婚する気はないと言われ、仕方ないことだ、自分が我慢するしかないんだ、と諦めました。

 

事実を知ってしまった母親を心配しましたが、母親はすぐにいつもと変わらない生活に戻りました。ホッとする反面、どうしてこんな重大なことなのに普通にしていられるのかと、失望と腹立たしい気持ちで、私の心はさらに荒れていきました。

 

二十歳の頃、父親から母親伝いに謝りの手紙を貰いました。その時母親は「私も読ませてもらったけど、お父さんも悪かったと言ってるんだから許してあげなさい」と言いました。私はもう自分が我慢するしかないと諦めていましたので「わかった。もういい」と手紙を突き返しました。

 

私は三十歳でうつ病になりました。すべてのことに無気力になりました。虐待をうけてから、ずっと一人の時間が苦手で、仕事が休みの日は何かと予定を詰め込みました。予定がない日は自然と過去の事を思い出してしまい、涙が溢れ出し、死にたいとネガテイブになることへ心が耐えられなくなっていき、結婚生活にも行き詰まり、どうすることもできない精神状態になってしまいました。

 

私はまた母親に相談しました。「どうしても過去に囚われてしまい、前に進めない。初めての相手が実の父だということが許せない」

 

手紙を受け取ったとき以来、十年ぶりにその話題を口にしたと思います。

 

その時の母親は驚いた様子で「そんな大変なことをお父さんはあなたにしたの?  お母さんのできる精一杯の罪滅ぼしとして、あなたと孫たちのためにこれからの生涯を捧げさせて欲しい。でも今は、お父さんが会社で大切なプロジェクトに携わっているから、後、数年待って欲しい。それからは別居する」と言い、私に謝りました。

 

私はたぶんうつ病なので、病院へ連れて行って欲しい、とお願いしましたが、母親は「うつ病は気持ちの持ちようだから、しっかりしなさい」と言われてしまいました。

 

でも後、数年我慢したら、少しは母親が行動を起こしてくれる。今よりは何かが変わり、気持ちも少しは晴れるのだろう、とこの時も私は、母親の言葉に従い、自分自身に頑張るのよ、と言い聞かせて何とかやり過ごしました。

 

離婚して、仕事も行かずに一年間家にいました。その間の生活費は父親がみてくれました。

 

寝られない夜も少しずつ減り、一年経ち、美容室の支店長をして欲しいとお話しを頂き、仕事に復帰しました。環境が変わり、うつ病も回復していき、仕事へのやり甲斐を感じられるようになっていきました。

 

母親はその後何年たっても何の行動もなく、私が四十歳になった頃、あの話はいつになるのか、と聞きました。その頃は父親も定年していたので、仕事のために待って欲しいとは言われないだろうと思い、思い切って聞いてみました。

 

母親からの返事は「お父さんと今更離れる気持ちは全然ない」でした。

 

その頃も少なくうつ病は治ったものの、相変わらず一人でいることが不安で、休みの日は子供が学校から帰って来るまで、一日中外で過ごし、予定がない日は自殺願望とネガテイブな自分との戦いでした。

 

父親と縁を切ることは、母親とも縁を切ることなんだろうと思っていましたから、自分から強くも言い出せず、やはり私が我慢するしかないのだと諦めました。四十歳にもなって母親の愛情を欲しがる私は子供なのでしょうか?

 

でもその頃から、親の愛情を求めることは叶わないことなのだから諦めよう、そのことに悩み時間を使うのではなく、私の受けていた性虐待を公表することで、今後被害者を減らすお手伝いに時間を使おう、と思うようになっていきました。

 

それによって親と決別するようなことになっても、それも私に課せられた運命ととらえよう。親に理解を求めてもどうにもならないのなら、自分が変わるしかない、と思い、過去を振り返り、どこで間違ってしまったのか、自分を知らなければ、と勇気を持つように努力しました。

 

一度にたくさん思い出すことは精神的に無理ですが、少しずつ調子のいい時に振り返り、文書に書き起こしていきました。思い出していくうちに苦しみが増し、涙が止まらず、嗚咽を漏らしながら泣く日もありました。

 

少しづつですが、いろいろ見つめ直すうちに、自分が悪かったのではない、と自己否定から自己肯定へ考えが変わっていくことに気がつきました。

 

死にたいと思う気持ちが全くなくなったとは言えませんが、生きていても許されるような気持ちが湧いてきました。

 

母親は本当は優しい人で、父親以外の男性と結婚していたなら、良い奥さんであり、母親だったと思います。父親により人生をめちゃくちゃにされたという点では、私と同じ被害者なのです。

 

私が被害を公表することで、母親も父親と同じ罪人になるのは可哀想で、私は母親のこれからの人生を責任をもって引き受ける覚悟で、もう一度、母親に話をしてみようと思いました。

 

でもこの考えはすごく甘かった。今まで未練がましく母親に愛情を求めていた気持ちが、まったくなくなりました。絶望と蔑みの感情を抱くことになりました。

 

 

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虐待の残す傷

私は幼稚園から中学ニ年まで、実の父親から性虐待をうけていました。

 

幼稚園の頃は、局部を触られることにくすぐったいから嫌だと思うだけで、それがどんな意味のあることなのか、わからずにいました。本当の意味を知ったのは中学ニ年の頃で、その時にはすでに最後の一線も越えていました。私の初めての相手は父親でした。

 

みんなしていることだと父親から言われていたことと、いつも怖い父親がその時はやさしいことからこれで良いのだと思っていました。

 

嫌だけど、しつけだといっていつも怒鳴られ、頭をバシバシ叩かれたりしていたので、このこともそれの延長くらいに思っていました。父親のすること、言うことは絶対の支配下で育った私は仕方ないことだと思っていました。友達は父親のことが嫌いじゃなさそうなので、私も嫌ってはいけないと思って、少しでも好きになれるように努力しました。

 

母親に父親のことが好きじゃないと、何度も言いましたが「誰のおかげで学校に通えたり、ご飯を食べれたりしてると思ってるの? ちゃんとお父さんに感謝しなさい」と、いつも私が悪者でした。

 

虐待が行われていた最中も「お父さん、好き」と言わされていました。嫌々ながらでも私の身体は少しづつ受け入れるように成長していきました。その当時、父親はすごく満足そうで幸せそうでした。

 

父親を喜ばすことができていることに、私も幸せに感じたことも正直ありました。感謝の気持ちをこのことで伝え、見返りに愛を与えられているような気持ちだったと思います。

 

今思うと、当時の自分があまりにも健気で可哀想で、涙が溢れますT^T  

 

父親からの幼い頃からの性虐待の裏には、こんな捻じ曲がった感情が存在します。

 

だから余計に事の真相を知った時、自分を嫌い、蔑むようになります。受け入れていた自分を殺したいと思います。当時は情報がなく、自殺は刃物で刺すか、首吊りか飛び降り、線路に飛び込むくらいしか思いつきませんでした。いちばん痛くなさそうなのは飛び降りなのか、と思ってみたり。リストカットをしてみても静脈を切れない。どれも私には恐ろしく、行動する勇気がありませんでした。。

 

幸せになることも許されないように思いました。こんな汚れた私を好きになってくれる人なんかいるわけないから結婚もできない、こんな汚れた身体で妊娠してしまっては赤ちゃんが汚れてしまうから、自分の子供も持つことができない。そんな未来がすべて奪われた失望感でいっぱいになりました。

 

三十年経った今でも「生きたいか?死にたいか?」と質問されると安楽死ができるのなら「死」を選ぶかも。死ぬ覚悟で逃げなかった自分を、いまだに心の何処かで責め続けてます。どんな幼い頃の自分に「あなたは悪くなかったのよ。逃げなかったんじゃなく、逃げられなかったのよ」と言ってはみるものの・・・

 

今現在は幸せなはずなのになぁ・・・

 

 加害者の父親はというと、ずっと俺様は変わらずですし、私には一度、二十歳の頃、謝罪の手紙を母親伝いでくれましたが、その内容は薄っぺらく、その後は何もありません。

 

それどころか、私の娘が小学生の頃、「オジィちゃんにお腹の辺りを寝ているとき触られた」と私に言ってきました。娘も何かおかしいと感じたから、私に言ってきたのだと思います。反省するどころか、また私の娘にもあわよくば、と思ってしまったみたいです。

 

そんな一面の裏に、社会の為にといろんな市のことに首を突っこんでボランティア活動をしてみたり、お寺を立て直すと聞けば大金を寄付してみたりと、人の為になることもします。

呆れるほど本当に内弁慶で弱い人間です。

 

自分ではゆかりと同意の上だから仕方なかったんだと思いこみ、正当化しているのだと思います。自分も伯母さんからそんなことをされていたと言っていたので、血縁者同士の関係は特別なことではないと、本気で思っているのかも。

 

 加害者と被害者の気持ちには大きなズレがあります。それがまた後々まで被害者を傷つける。常に親という立場で、この人には死ぬまで私を傷つけ続けるのだと思うと、お願いだから早く死んでと思ってしまいます。

 

私は離婚してからも姓を戻していません。それを数年前に父親から、「別れた夫に未練があって戻さないのか?もうそろそろ戻してくれ」と頼まれました。私は一人娘なので、普通の親ならそう願うでしょうし、普通の娘なら子供達ももう大人なのだから話をして戻した方が良いと思うでしょう。

 

でも私は「あんたと同じ姓になりたくないから戻さんのよ!」と言いたかった。どうしてそんなことも分からずに平気で姓を戻せと言えるのか気がしれません。親を傷つけたくないから笑って「またボチボチに考えるね」とか返事をしてしまいます。

 

私は京都のとあるお寺のお坊さんに相談に行ったことがあります。自分の受けてきたことを話し、私は一人娘なのに姓を戻すことができない。これは間違ったことなのか。親不孝者なのか。戻さないことで子供達に悪い影響はないのかとか尋ねました。

 

お坊さんはひと言、「戻す必要はない」とおっしゃいました。あなたはあなたの考えで今後も進んでいきなさい、自分が頑張ろうと思うことに全力を尽くしなさい。と背中を押してくれました。嬉しかったです。私は堂々と生きていいのだと生きることを許された気持ちになりました。

 

自分にとっては些細なことでも、被害者にとっては深く傷つくことがそこら中にあります。

被害者の心は地雷だらけで、心の中で何発も爆発させられ、血まみれになりながらも周りに見せないように歯を食いしばり痛みに耐え続けて、また治りかけてきたら次の地雷を踏まれて。誰かに地雷の撤去作業を手伝って欲しい(あまりにも地雷の数が多すぎて自分一人じゃ何年かかっても取り除き切るのは無理だょーー)

 

でも人間とは凄いものでどんなに辛く忘れられない出来事でも少しづつ少しづつ記憶が薄れていきます。毎日思い出していたことが二日に一度になり、三日に一度になり、一週間に一度になり、思い出した時の心の痛みも少しづつ少しづつ薄れていきます。

 

今、現在苦しみの中で死にたいと願う方がこのブログを読んでいるのであれば、信じて下さい。間違いなく今日の自分より一ヶ月後の自分、一ヶ月後の自分より一年後の自分、一年後の自分より五年後の自分と悲しみが薄れていき、楽しいことも感じられるようになっていきます。

 

だから生きて下さい。死なないで下さい。お願いしますね。あなたは一人ではありません。かと言っても忘れることはできませんでしたが、幸せを感じられることもできるようになっていきます。

 

私は一生懸命、母親に言われていたこともあり父親を許す努力をしました。三十年経って、身体的虐待や心理的虐待については、親もどう子供に接したらいいのかわからなかったのだろうと、ある程度は許すことができましたが、性的虐待に関しては、どうしても理解することができず、許すことできません。許さなければと思うことで余計に苦しみました。最近まで笑顔で父親と接してきました。

 

長い間、自分の気持ちに嘘をつき、素直な娘を装ってきましたが、作り笑いがバカバカしくなり、やめた途端に気持ちが楽になり、今は目を合わすこともしなくなりました。やっと父親の支配から抜け出し、晴れ晴れとした気持ちになりました。

 

自分のただ一人の父親だから許して、これからも娘として接しなければならない、と勝手に自分を追いこんでいました。そんなことは必要なかったんです。

 

血が繋がっていることで娘でいなければいけないなんて、誰にも強制されるものではなく、自分が誰を父親と思うのかが大切、親を他人だと思うことも選択肢にあり、逆に血の繋がりがりがない人を父親のように慕うことでもなんら構わない、と考え方を変えました。

 

これからもまた気持ちの変化はあるかも知れませんが、もう自分に無理をするのはやめることにしました。

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相手がよっぽど謝ってきて、その言葉を自然に受け入れることができたときに、また親子になればよし!とすることにします。

 

罪を償ってもない犯罪者に、気を遣う必要なんてないのに、親子って本当に厄介です。犯罪者でも唯一の父親なんですよね。そんな関係者を踏みにじってるのだから、殺人くらい重い罪にするべきだど思います。

 

これからの日本が児童虐待に理解ある国に変わっていきますように・・・

 

 

 

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毒親にならないために

私の勝手な自論です。サラッと聞き流していただけるとありがたいです。

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毒親に育てられると、連鎖で知らず知らずに毒親になってしまうと言います。幼い頃から虐待が日常的にあった子供は普通の家庭を知らないんですから、当然の事だと思います。

 

両親が生まれて間もない頃、何らかの理由で片親になってしまうと、片親が当たり前で、両親の揃った家庭がわからないのと一緒です。

 

子供はこれが普通なんだ、と理解しようとすると思います。怒鳴られたり叩かれたり、体罰のない家庭がある事が、逆に不思議に思います。どんなに自分は頑張ってみても叱られる。叱られないコは凄く賢い、素直な子に違いない。私の態度がいけないのだ。もっと賢く素直な良い子にならないといけないと思うはずです。

 

でも子供はそんな安らぎのない生活に、悲しい気持ちを持って行く場所がなくカンシャクを起こしたり、自分でも怒られるまた叩かれる、とわかっていても、湧き上がる寂しさを抑えきれず、かまって欲しいがために無理な事を言い駄々をこねたりしてしまいます。それでまた余計に怒られて。永遠に終わりのない負のスパイラルに陥ります。

 

そんな毒親にやっと気がつくのは思春期に入った中学生くらいです。

 

自分の親が普通じゃなかったんだ。と気が付いても、なかなか幼い頃から受けてきた事は身体に染み付いてしまっていて、複雑にねじれた毒親からの洗脳は、そう簡単には取りのぞけません。

 

自分の親を毒親だとは信じたくないという感情も当然ありますよね。

 

恥ずかしいですが、私は幼稚園から中学生まで性虐待を受けていながら40歳になるまで、親の事を周りの人に悪く言われることに頭ではわかっていながら、腹立たしさを感じていました。

 

 身体的虐待、心理的虐待、性的虐待の中を過ごした私でも、なんとなく子供達は成人を迎え、無事に巣立っていきました。子供が男の子8歳、女の子6歳で離婚して、それからは隣の実家に住む母親の協力で仕事をしながら、手探りの毎日でした。(母親は孫達にはすごく優しく接してくれました)

 

私の子育ての基準は『もし親が選べるとしたらこの人の子供に産まれたい』と思えるような親になろう!です。

 

育児で悩んだ時、これに当てはめると大概、どうにかなりました。人に迷惑をかける事、危険な事以外のことはできるだけ見守りながら、怒らないようにしました。

 

子供は親の行動をしっかり見ているので、子供にどうこう叱るより自分の行動に気をつけるように、恥ずかしくない行動を心掛けました。(当時はこれで大丈夫なのかとすごく不安でした。甘すぎなのかと心配しました。私の育った環境とは180°違うかったので( ̄ー ̄))

 

ゲームもダメとは言ったことはありませんでした。(お兄ちゃんは高校受験の前日にも友達呼んでゲームをしていました。さすがにこれには感心しました。すごい度胸だ!)勉強もしなさいとは、一度も言いませんでした。親が言わないと子供は逆に不安になるみたいで、困らない程度に自分で計画してしていたみたいです。

 

私が受けた子育てはがんじがらめにすべてが決まっていました。朝起きる時間から始まり、テレビは1日30分。小学校のときの門限は5時。就寝は8時。ご飯はどんな理由があっても残さず食べる。ご飯の間はおならをしてはならない。トイレはもちろんダメ。ご飯の間でトイレ行くと、その時点でご飯は終わり。言い出したらきりがないくらい、してはダメなことがあり、これらのことを守らなければ怒鳴られる、叩かれる。もういいと許可が出るまでの正座。

 

そのほか体罰がありました。私にも守れないときはそれなりの理由がありましたが、理由など口に出すものならも一つひどい仕打ちが待っています。(父親だけは食事中もおならをしてもいいんです。男だから。今考えると馬鹿馬鹿しい)

 

これらすべてにおいて、反面教師として実行しました(笑)逆育児書です。

 

心に反面教師と決めていても自分の一時の感情でヒステリックに叱ってみたり、時には感情に任せで叩いてしまったり、親と同じ事をしてしまう場面もありました。そんな風に踏み外してしまうことがあっても、また自分の行動を改め、反省し、軸になるものに戻るように努力することを忘れなければ、極端にぶれることもないような気がします。子供達もグレることはなく、勉強も生活態度もいたって平均的な感じで特別、困ることはありませんでした。

 

男の子は高校卒業後、車の会社に就職しており、女の子は今現在、大学三年生です。来年は管理栄養士の資格試験を受けたいと言っています。(ねっ。いたって普通でしょ。ここでお医者様になりましたとかじゃないところがこの子育て参考にならんと思いますよね〜w)

 

頼りないこんな私でも、お母さんが親で良かった、と反抗期も終わり、言ってもらえるようになり、そこそこ間違ってなかったのかなって思えるようになりました。

 

このブログを読まれている方でちょっと子育てに悩んだとき、「ゆるぅーい感じの子育てでも案外どうにかなっていくんだなぁ」と思い出してみて下さい。

 

子供達の20歳までなんてあっという間です。20歳前後で家を出て別々に生活するようになることだってあるんです。1日のうち寝ている時間を除けば一緒に過ごす時間は4時間くらいでしょうか? そんな限られた時間なら、少しでも親子で笑い合う時間を多く過ごした方がお得だと私は思い、できるだけ怒った顔は子供に見せないようにしました。

 

母親はきちんとしつけしないと子供が世間に出て困るんじゃないかという責任感から、ついつい厳しい言い方をして、何としてでも言うことを聞かせようと、やっきになってしまいがちですが、言葉を選び、子供の言い分も聴きながら話し合った方が一見、時間はかかり、面倒に思えますが、結局は近道だったりすると感じました。

 

無理矢理圧力をかけ、言うことを聞かせても、得られるものは親の達成感だけのような気がします。

 

子育てとはひたすら我慢と忍耐なんだなぁ。とつくづく思います。

 

 

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1番の理解者だった祖母の死

先日、母方の祖母が亡くなりました。九十八歳でした。十年くらい前からアルツハイマーとなり、最後の一年間は寝たきりでした。

 

アルツハイマーになる前の祖母は、とても優しい穏やかな人でした。ずっと祖父を愛していると、可愛らしく言葉で伝える素直な人でした。

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ゆかりは(子供の頃のわたし)はそんな祖母が大好きで、ゆかりのこともいつも「ゆかりは可愛いなぁ、ゆかりはおりこうさんじゃ」と頭を撫でながら、優しくゆかりを包んでくれていました。ゆかりの存在を肯定してくれる人とでした。

 

ゆかりはきついお粉の匂いが嫌だと思いながらも、祖母の隣は唯一安心できる場所でした。

 

祖母はゆかりが幼い頃、半年に一度くらいのペースで家に二、三日、泊まってくれていました。来る日がわかると指折り数えて心待ちにし、来た日は嬉しくって嬉しくって。でも来た瞬間から帰ってしまう日が悲しくって悲しくってどうしようもなかったのを覚えています。

祖母が家にいる間は、母もうれしそうで優しく、体罰はありませんでした。父親から怒鳴られても、祖母がかばってくれました。祖母がいる間は家の中も安心できる場所になりました。

 

祖母がいてくれてなかったら、ゆかりの幼少期はもっと辛く寂しいものだったと思います。

 

そんな大切な祖母に対しても、中学の反抗期には優しくしてあげれなかった。素直になることが出来なくなってしまいました。

 

唯一の理解者も、両親のお陰で汚い大人の仲間入りになってしまい、私は自ら心の壁をつくってしまいました。祖母に一生懸命、父親からの被害を伝えた言葉は、母親の根回しにより、私の夢の中のこととなってしまってました。

 

亡くなったと知らせを受け、車で1時間半のところに子供達と向かいました。

 

老衰で穏やかに天国に召されました。

 

ふくよかだった祖母はとても痩せていて、私は一人置いていかれたような気持ちになりました。子供の頃、ずっと一緒居たかったのに祖母は「おばあちゃんもずっとゆかりとおりたいけど、おじいちゃんが待ちよるから帰るわなあ」と言って、バスに乗ってしまいます。

 

私はいつも次はいつ来てくれるのか、何度も聞きました。今度も祖母は、おじいちゃんのいる天国に行ってしまいました。今回もゆかりは置いてけぼり。おばあちゃん!!私も一緒に連れってよ。私はゆかりに最後のお別れをするように促しました。自分でも思いがけない程、涙が溢れました。

 

ゆかりは最後にもう一度、祖母の温かい手で、頭を撫でて欲しかったと思います。

 

「ゆかりに安らかな時間をくれてありがとう。あの時間がなかったら、ゆかりの人生はもっと悲惨なものになっていたとおもうよ。ゆかりを助けてくれてありがとうね」と心の中で呟きました。

 

お通夜に、父親は来ませんでした。お陰で穏やかな気持ちで祖母をお見送りすることができました。

 

父親は告別式に合わせてやってきました。お寺の方のお経も終わり、祭壇に飾ってあるお花をみんなで棺の中に入れて火葬場へと見送り、火葬場の方の淡々とした説明を聞き、最後に祖母の顔を見ながらお別れを言いました。その間、父親は泣いていました。

 

私は父親の泣き顔を、私の記憶の中では初めて見ました。

 

祖母が汚されるようで、私は腹立たしく思いました。お前に泣く資格があるのか。大切な孫の女の部分を犯しておきながら。祖母が本当の事を理解できていたら、お前のことを許すはずがない。葬式に出てくれることも嫌に思うに違いないと思いました。

 

祖母なら全面的に私の味方でいてくれたはずだ、と思いたい。私の産まれてきた存在を肯定できる、最後の叶わない希望の、私の勝手な思い上がりです。

 

現実は、祖母も父親が私を犯していたと知ったところで何も変わらなかったと思います。母親と同じでなかったことにしていたことでしょう。

 

どうして昔の女性はそこまで弱く、自分を押し殺して生きているのか。我が子や孫を犠牲にしてまで守り続ける家庭に、何の価値があるのか私には理解できません。

 

おばあちゃん、迷わずにおじいちゃんのところに行ってね。私はもう少しこちらで頑張ってみようと思ってる。

 

私のような犠牲者がこれ以上増えないように、声を大にして「私は、父親により処女を奪われた被虐待児だ」と、言わなくては。

 

私は、今まで弱すぎたあなたたちの娘や孫としてあなたたちの分も強く生きたい・・・

 

ちなみに私の娘は、無茶苦茶強い意志を持った女性に育ちました。周りに翻弄されることなく自分のするべき事をしっかり見据え、大地を踏みしめて生きている感じがひしひしと伝わって来ます。二十歳そこそこの子には思えません。旦那さんになる人は大変だと思います。恐妻家間違いなし!(爆笑)

 

 

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