性的虐待‥性虐待はなぜ起きる

私は実父親に幼稚園から中学2年まで性虐待を受けて育ちました。一見普通に見える家庭内で起こった犯罪。私の家庭で何が起こっていたのかを冷静に振り返りこれからの子供達を性的虐待から守ることが出来るのか、不幸にも私と同じ様な体験をしてしまった人達には何が必要かを考えて行きたいと思います。

ブログに訪れた方はまずこちらをご覧下さい。

性虐待②・・・私の家で何がおこっていたのか

 

 

 

このブログはノンフィクションです。私と同じ様な被害に遭われた方が読まれるとフラッシュバックする内容があります。ご注意ください。

 

 

 

 

 

学童期小学1年〜4年

その頃、父親は私の裸の写真を撮りたがりました。この年齢になると裸になるのが恥ずかしい事だとわかっていたので凄く抵抗しました。声を震わせながら「お願いだから許して下さい」と何度もお願いしました。海の中の岩の上や山の草むらの中でポーズを取らされ写真を撮りました。子供の頃の身体は汚れなく綺麗だから写真に残しておきたいと言っていました。なぜか家に外人の女の子達の裸の写真集が何冊かありました。その写真集の中の女の子のポーズを真似するように指示されました。その写真の中の少女達は爽やかなイメージはなくきついメークをして子供らしいとは言えない異様な雰囲気でした。後から母親に聞いたのですが写真集は書店から父親が買ってきたものだと言っでいました。その頃は子供の裸の写真集は合法だったのでしょうか?だとしたら驚くべきことです。1980年前後の日本は児童性愛を容認していたということです。

 

《大嫌いだった頃の写真を見ることは辛くアルバム開くことが怖かったのですが、三十年経った今、ようやく実家から持ち帰り小さい頃の自分を見る事が出来ました。そこには私が想像してた女の子よりもずっと可愛く(顔が可愛く思ったのではありません笑。)無邪気な笑顔で写っていたことに嬉しさと切なさを感じました。もっと早く子供の頃の自分を愛してあげることが出来なかったことに胸が痛くなりました》

 

この頃も理不尽なしつけという名の暴力や罵声は続いていました。私は橋の下で拾われた子供だとよく冗談混じりに父親からからかわれていました。私は本当に拾われて来たんじゃないかと思うようになりました。私には本当は優しいお父さんとお母さんにいて必ず迎えに来てくれる。そうあって欲しいと願うようになっていきました。何度も母親に確認しましたが、その度にあなたは私が産んだ子だと言われました。

 

父親が仕事から早く帰った日はやはりお風呂は父親と入るように決まっていました。いつまで一緒に入らなければいけないのだろうと思うと悲しくなりました。

 

勉強もスポーツも周りの子に負けては両親をがっかりさせてしまうと思い自分なりに一生懸命頑張りました。毎年、学級委員長にも選ばれそれを両親に報告すると両親が誇らしげでまた喜ばせることをしなくてはと頑張りました。頑張ってお利口にすることで、この家庭での私の居場所を確保できると考えていました。

 

 

小学5、6年

夜、寝ているとなぜか人に触られている感じがして目を覚ますと手の温もりが身体に残っていてる。横では父親が眠っている。そんなことを繰り返しながら行為は少しづつエスカレートしていきました。

 

初めは私の勘違いかな、と思っていました。でも確実に胸や下腹部を触られた感じがあり気持ち悪く思いました。ある時寝たふりをしているとやっぱり父親の手が私の胸や下腹部を撫でていました。私が目を開けるとその手はさっとひっこめられました。私は寝返りを打ってみたりしながら嫌な気持ちを誤魔化していました。嫌とは言葉にすることは出来ませんでした。

 

何度もそんなことがあるうちに私にとっては特別なことでは無くなっていきました。次第にいつも好き放題に振る舞う父親がこそこそしていることに腹が立つようになっていきました。

 

私は心は完全に父親に支配されていました。父親は独裁者でした。教祖のように父を慕う母親。私は心は例えるなら地下に住む奴隷でした。地下は寒く薄暗くジメジメしておりたくさんのネズミ達が這いずり回っています。その隅っこで私は膝をかかえて小さくうずくまっていました私の発言権などはまったくなく父親の気分で地下から時々地上に出してもらえそんな日は眩しい世界に心弾ませました。父親の考えと違うことを言ってしまったり父親の機嫌を損なう出来事ことがあれば途端にまた地下に戻される。そんな環境で毎日、父親の顔色を伺いながら父親との距離を測りながら生活していました。それは母親も同じでした。母親はよく地下に暖かい出来立てのおやつを持ってきてくれました。でも決して地下から出してくれる事はありませんでした。

 f:id:kaoagete:20170117175936j:image

 

そんないつも自存心やプライドが高い傲慢な父親が私の身体に触れるときは私の様子を伺い私の寝ているのを確認し触ってくることに苛立ちを感じました。私が無防備なときにするのは何故なのだろうか、常に正しい父親が私にしていることはそんなに秘密にしておかなければいけないことなのか。いつも私に「お前の為のしつけだ」と言って体罰を加えていた父親が私の為にならないようなことをするはずはない、堂々と毅然な態度ですればいいことではないのか。と。

 

無理矢理ではありませんでした。
私が身を差し出すかたちでこの時は生涯自分が苦しむことになる大変なあやまちであることとは知らず日常化していきました。気がつけばいつの日からか最後の一線も超えることになってしまっていました。

 

当時、平屋で台所の隣がわたしの部屋でした。私のベットに父親は仕事が早く終わると入ってきては私の体を舐め回し満足そうに優しく声をかけてきました。今までの暴力的で言葉汚くののしる父親とは別人でした。私はこんなことは大したことではないと自分に言い聞かせ目をつぶり父親がやめてくれるまで我慢しました。気持ち悪くくすぐったく何をされているのかよくわかりませんでした。

 

でも嫌に思いながらも私はこれで良かったのだと思うようになっていきました。これでやっとこの家の中で安心して生活できる居場所を作ることが出来たと思いました。今考えると本当に単純で馬鹿だったと思いますがその当時の私には父親の機嫌をとる事が最優先と思い私自身も自分の中での善悪の判断より父親に従う事を選んでしまいました。私の身体も少しづつ変化していき恥ずかしいことですが父親との行為によってオーガニズムも感じるようになってしまいました。

 

いつものように父親が私の布団に入って私の性器を舐めているとき母親が部屋に入って来たことがあります。

母親はカッとなった悲鳴にも似た声で「何をしてるの!!」と言い部屋を飛び出して行きました。父親は慌てて身なりを整え母親を追いかけて私の部屋を出て行きました。私は心の中で何度も母親に謝りました。
しばらくすると父親が戻ってきました。私が「お母さんは何て言ったの?」と問いました。私がお腹が痛いと言うので見てあげてたと言ったら信じてくれたと。そんな子供じみた言い訳が通じたのかと信じられませんでした。母親はこの時から知っていたのでしょうか。

 

母親が留守のときはいろいろな部屋で行為をしました。ある時、母親のドレッサーに裸になって四つん這いになっている自分の姿が映りました。鏡の中の女の子は冷ややかな眼差しで私を見ていました。私は見ないで欲しいのに女の子は私から目を反らせてくれませんでした。もう一度、鏡全体を見返しました。私のお尻の背後に父親の姿も映っています。そこにはこの世のものとはおもえないような汚らわしい醜い光景が写っていました。身体の内側から込み上げてくる憎悪に胸が苦しくなりました。鏡の中の女の子が自分なのだと理解するのにしばらく時間がかかりました。

 

私自身、成長とともに少しづつ変な世間とずれているような違和感を感じるようになってきました。父親に何度もこれは間違った事じゃないのかと聞きましたが、父親に他の家でもよくあることで特別なことではないと言われて私も考えることが面倒くさくなっていきました。今更、父親から逃れられることも出来ない諦めと他の子もしているのだったら仕方のないことなんだと言い聞かせている部分と母親を裏切っていることで母親にも頼ることが出来ない孤独感で引き返すことが出来なくなっていました。何もより厳格な父親がそれほど悪いことをする訳がないと信じていました。

 

 

親友のお父さんが病気で亡くなりました。私は委員長だったのでクラスの代表で告別式に参列させてもらいました。親友が凄く落ち込んでいるのに私は優しい慰めの言葉をかけてあげることがで出来ませんでした。告別式に参列させてもらった私に「来てくれてたよね、ありがとう。」と言ってくれた彼女に「学級委員長だから仕方なく行った」とか、私の家族を羨ましがる言葉には「父親なんか必要ないじゃん。」と酷いことを言って口喧嘩になりました。そんな酷いことを言ってしまった私に今も友達でいてくれている彼女に感謝しています。最近ようやく過去の性虐待のことを話し当時のことを謝ることが出来ました。

 

小学生だった彼女には親友の思いやりのない言葉は人生を狂わせる様なショックな言葉だったと思います。

 

6年生の時、性器とその周辺が真っ赤にただれました。オロナインをしばらく塗りましたが酷くなる一方で皮膚科で診て貰いました。母親から診断結果は汗疹だったと聞かされましたが今思えば性病だったと思います。生理がきていない女のコの性器はバイ菌から守る力が弱く性病にかかりやすいそうです。治るまでに1ヶ月かかりました。

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

 

このブログへのご質問お問い合わせなどお気軽に

beso0201@icloud.comまでメールをお願いいたします。

 

 

 

 

 

性虐待①・・・私の家庭でなにが起こっていたのか

 

私は現在、香川県高松市に住む46歳。高校を卒業後、大阪に出て通信課程を経て美容師免許を取り、少しの休職期間はあったものの現在に至るまでの間、美容室でサロンワークにつかせてもらっております。


二十歳で結婚をしました。二人の子供にも恵まれ、一人目の子供の出産を機に大阪から香川に戻ってきました。三十歳の時離婚してしまい子供達には寂しい思いをさせてしまいましたが、今はもう二人共、成人して長男は県外に就職、長女も県外の大学へ進学しました。四年前からこの先の人生を共に過ごしたいと願うパートナーとの出会いもありました。


今まで周りの人々にいつも助けていただき、今日まで頑張ってくることができたと感謝しています。

 

私には学生時代からの友達にすら今まで言えなかった過去があります。ずっと言いたかったのですが、とても恥ずかしく惨めで、言いだすことができませんでした。言ってしまうことで友達に気を遣わせてしまい、本当の友達ではなくなってしまいそうで怖くて言えませんでした。

 

『神は乗り越えれる試練しか与えない』と言います。(私はキリスト教ではありませんが、キリスト教徒の叔母さんに教えてもらいました)子供の頃からずっと何度も神様に「わたしになぜこの試練を与えられたのですか? わたしには乗り越えることが無理です。お願いします。こんな試練を与えるのはやめて下さい。わたしの記憶からすべてを消し去ってしまってください」と祈りながら長い間生きてきました。

 

それは実の父親からの性虐待です。私の最初の男性は父親です。


最近、被害を受けていた頃の自分を冷静に客観的に思い出すことが出来るようになって、気持ちの整理がついてきました。父親とこうなったのも私に落ち度があったせいではないのか。人として犯してはいけないことをしてしまった生きる価値もない人間ではないのか惨めで汚らわしい人生。という思いが心の中に常にあり、ふと思い出す子供の頃の自分は、群れをなした害虫の塊のように汚く思えて目を背け、現実を直視することができませんでした。ただただ忘れたいと思うばかりでした。

 

そんな中『性虐待』という言葉は今までの考えとは全く違う角度から過去の出来事を客観的に見るとこに気づかせてくれました。かと言ってその言葉が最初から違和感なく気持ちと重なった訳ではありません。私は父親の間違った愛情表現からこんなことになってしまっているのだ。私は父親を許してあげなければいけない。私が広い心で許すことで関係が上手くいくのだ、とずっと長い間思っていました。なので一生懸命、笑顔で接するように努めてきました。

 

でもいくら頑張っても心の悲しみは癒えることがありませんでした。いろんな本を読みました。同じような経験をされた方の本やブログなども読ませてもらいました。

 

『毒になる親』は私のバイブル本となりました。

f:id:kaoagete:20170116100541j:image

 

子どもの頃、家庭が心休まる安心できる場所ではなかった、なにか今現在生きづらさを感じる方にはぜひとも読んで頂きたい本です。読み返す度に新たな気づきがあるとおもいます。

 

父親が加害者で私は被害者、初めて「私は、性虐待を受けていたかわいそうな子供だったんだ」と気がつくことができました。ここまで心が回復し、正しい認識をもち過去を乗り越えるまでに30年かかりました。「わたしが悪かったのでなかったのだ」と自分を許すことで子どもの頃の自分を暗いじめじめした牢獄から解放させる事ができました。

 

そこから思い出したくない一生懸命忘れようとしていた過去の出来事が、忘れてはいけない出来事に変わっていきました。私は経験したことを伝えなくてはいけない。これは見過ごされてはいけない大罪なのだと言うこと。被害者が訴えなければどれだけ残酷なことか、人生を狂わせてしまう出来事なのかを加害者に理解してはもらわうことはできない。しかし残念ながら被害者は言いたくても言い出せません。自分が言い出すことで家族を苦しめ傷つけてしまう。自分さえ我慢すれば、と思ってしまいます。

 

性虐待が原因でいろいろな依存症、精神的な病を患ってしまいどうすることも出来ない方も居ます。私はたまたまアルコールを受け付けない体質でしたのでお酒飲んで気を紛らわすことができず、アルコール依存症になることはありませんでしたが、体質的に大丈夫だったら間違いなくアルコールに飲まれていたと思います。薬物も手にはいる環境ではなかったからできなかっただけで、手に入れば100パーセント現実から逃避する為にのめり込んで抜け出せなくなったと思います。その時代は携帯もインターネットも今ほど進んでいませんでしたので援助交際することもありませんでしたが、今の時代なら間違いなく自暴自棄になり、援助交際をして父親以外の人とSEXをすることで安心感を得ていたと思います。私は他の被害者の方と比べ強かった訳でもなんでもありません。たまたまが重なり運良く逃げ通せただけのことです。

 f:id:kaoagete:20170117162257j:image

そんな環境に感謝をし私は自分の受けて来たことを公表し、被害者の方々が言いたかった苦しみや悲しみを加害者に訴えなければいけないと思うようになりました。

 

加害者は子供は嫌がってなかった、と思っています。実際は嫌と言うことが怖くてできなかった。もしくは嫌と言わなければいけないことだと知りもしない年齢だった。ということに気づこうともしていません。ただ自分の欲求を満たすために、都合のいいように相手も喜んでいたのだからと正当化しています。

 

家庭内のことは第三者が介入しにくく、被害者を助け出すことは困難です。被害者もどんなに酷いことをされても、自分の親や身内の苦しむ顔は見たくありません。親を慕う気持ちも変わらずに持ち続けているので、自分から逃げ出すこともなかなかできない。そんな状況のなかで被害者を減らすためには加害者を減らすことしかないようにも思えます。

 

性虐待の抑止力になる為、できることは何かないのかと模索する毎日に変わっていきました。
過去の出来事があって、今の私があります。被害者にしかわからないことを伝えることで、消し去りたい過去が無駄ではなかったことになると思うようようになっていきました。

 

周りの人に性虐待のことを知られるのが怖くなくなりました。

 

同じ経験をした方にはわかると思いますが、ぐちゃぐちゃにこんがらかった感情を1人でほどいていくのは永遠と思えるような、気が遠くなる作業です。でも、誰か人に話をすることで気づきがあります。アドバイスしたりとか偉そうなことはできませんが、心を寄り添わせ、一緒に考えていくことはできるのではないのか。そんな辛い経験でも人の役に立つことがあれば、意味のある経験であったことになる。という考え方に、少しづつではあるけれど、確実に変化していきました。

 

 

このブログはノンフィクションです。私と同じ様な被害に遭われた方が読まれるとフラッシュバックする内容があります。ご注意ください。

 

 

 

 

 

幼少期

わたしへの性虐待はもっと前からあったのかも知れませんが、記憶に残っているので4、5歳くらいからになります。私の家族は父親と母親、私の核家族です。

 

父親は地方の一流企業と言われている会社に勤め、母親は専業主婦です。母親は教員免許をもっていますが、父親は働くことを許しませんでした。

 

母親は経済的にも精神的にも父親に全て依存していました。どんなに怒鳴られ酷い言葉を浴びせられようが、暴力を振るわれようが父親が言うことは正しいと思っていました。まさに共依存の関係です。母親は自分を犠牲にしてでも父親に尽くすことで自分の存在価値を認めていました。

 

私への性虐待についても、自分にも非がありお父さんみたいな良い人なのにそんな行動に走らせてしまって悪かったと後悔しています。子供の頃の私の目からみても、母親は父親の言いなりになる自分の意思をもたないロボットのように見えました。しかし母親自身はそれに気づかず自分の意思で行動していると勘違いしていましたが、洗脳されているとしか思えませんでした。

 

私が言うことを聞かなければ、父親は母親の育て方が悪い、しつけができていないと、母親と私を怒鳴りつけたり叩くという暴力的なところがありました。母親はよく泣いていました。父親が怖かったのだと思います。

 

母親は私に完璧な子供像を求めて、私の下着を膝までおろし、泣きじゃくる私のお尻を母親も泣きながら叩いていました。ある時は火をつけたマッチを消して熱いうちに私の手に当てて来たりと、私が言う事を聞くまで必死になってお仕置きだと言いながら、しつけと言う名の暴力が繰り返されていました。

 

普段はすごく優しい母親がヒステリックになる様子を見るのが辛く、私がお利口にしていないと母親まで父親に叩かれてしまう。私にとって家庭はとても心安らぐ場所ではありませんでした。


父親が、黒いものでも白といえば白となりますし、家族間の許されること、許されないことも父親の気分で日替わりです。毎日、父親の顔色を伺うようになっていきました。

f:id:kaoagete:20170117162145j:image

 

そんな父親でも楽しく遊んでくれたこともあります。母親が留守の時にはじゃんけんゲームをよくしていました。私が勝つとおやつを食べさせて貰えて、父親が勝つと私の股間を舐めます。私はくすぐったくて嫌でした。でもお菓子かもらえたのでくすぐったいのは我慢しました。その行為が何なのかはわかりませんでした。母親には言ってはいけないと言われました。母親が留守のときはいつもしていました。

 

でもやはり、何か恥ずかしいことのような気がしました。母親に隠し事をしているのが嫌で、なにか悪いことをしているような後ろめたさがあって、このことを母親に言いました。母親がどう返事したのかは覚えていません。たいして気にしたような様子も感じなかったので、気にした私がおかしいのだと思いました。でもそのゲームは、母親に言ったその日からすることはありませんでした。

 

その頃、私は寝る前に父親にキスをすることを義務づけられていました。それは凄く嫌でした。父親のベタベタした顔に近づくことにすごく抵抗がありました。何度も泣いて嫌だと訴えました。母親にも助けを求めました。せめて頬で許してほしいと言いましたが、聞き入れては貰えませんでした。

 

父親は私が産まれる頃、2年ほど出張でアメリカに行っていました。そこでホームスティ先のお嬢さんが父親に寝るときに挨拶のキスをしていたそうです。その風景が印象的で家族の絆の深さを感じたので真似をしたいということでした。

 

ここは日本です。叱られ泣きじゃくりながらキスをしても、親子のよいコミュニケーションになっていないということは誰でもわかりそうですけど、父親は私がキスをすると満足そうでした。

 

母親は父親に懐かない私に、少しでもコミニケーションをとらせようとしていました。父親が早く帰ってきたときはお風呂も当然のことながら一緒に入るように決まっていました。父親に性器を強く洗われて痛いと母親に訴えました。
お風呂の中でのことはまだハッキリと思い出せていません。父親とお風呂に入るのは凄く嫌だったのですが中でのことがボンヤリとしか出てこないので書くことは控えておきます。

 

 

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

 

このブログへのご質問お問い合わせなどは

beso0201@icloud.comまでメールをお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

家庭内での性虐待

 

何十年経っても癒えることのない心の傷 世の中にはタブーとされている近親姦 。誰もが信じ難く目を背けたくなるようなことが、一見普通に見える幸せそうな家庭にもあること、実父親や母親の再婚相手、叔父さんなど近親者による性虐待があるという事実を、一人でも多くの人に知ってもらい、

 

正しい理解の上で自分の周りにいる子供たちに目を向け、子供からのわずかだけど精一杯の心のサインを見逃さないで欲しい、子供の言うことを信じて疑わず否定せず、性虐待の被害に気づいてもらいたいと願いながら、

 

自分の過去を、5歳から中学2年まで実の父親から性虐待を受けていたことを公表する決心をしました。

 f:id:kaoagete:20170113161247j:image

性虐待被害は、ほとんどが家庭という塀の中で表沙汰になることなく固く閉ざされています。

 

被害者はそのことから何年経っても言い出すことができず、苦しみ続けます。

 

永遠とも思える暗闇にのみこまれた被害者は、心を殺され、生きることに絶望を感じながらも口を閉ざすことで、加害者も含め家族を守り続けています。

 

加害者は罪を犯しているにもかかわらず、あたかも被害者の妄想であるかのように、裁かれることもなく、平然と日常を送っています。

 

被害者は自分に対する嫌悪感と憎悪で毎日このまま消えてしまえたらどんなに楽になれるのだろうと、一日一日をギリギリのところで生き繋いでいます。

 

自分に何が起こっていたのかを見つめ直し、被害に合わない為にはどうすれば良いのか、もしあってしまっていたことに気がついたら周りはどう対処すれば良いのか、負の連鎖を起こさないようする為には何が必要なのか、考えていきたいと思っております。

 

これからのブログの内容で気分を悪くされることもあろうかと思いますがお許しください。

同じような被害を受けた方、もしくは受けた可能性がある方はフラッシュバックのおそれがある内容です。その場合は読むことをやめ、気持ちが落ち着くまで大きく深呼吸をして下さい。

 

1人でも多くの方にこのブログを読んでいただけることを願います。

些細なことでもかまいませんのでコメントいただけると嬉しく思います。

 

同じ被害者の方、ご意見やご感想をお聞かせ下さい。子供の頃のあなたは、なにも言えなかった、従うしか選択肢がなかったのです。子供の頃の自分を責めないであげてください。これから先の人生はどんなに辛い過去があったとしても、すべての人、平等に、次の日になれば、朝が来ます。朝が来ることは避けられないことです。

 

その一日をどう生きるかはあなたの考えで選択することができます。自分を大切にした生き方を選択して下さいますよう、心からお願いいたします。

 

今は見えていないかもしれませんがあなたには必ず明るい未来があることを信じて諦めないでください・・・

私と共に生きて下さい。

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

 

このブログへのご質問お問い合わせなどは

beso0201@icloud.comまでお願いいたします。