性的虐待‥性虐待はなぜ起きる

私は実父親に幼稚園から中学2年まで性虐待を受けて育ちました。一見普通に見える家庭内で起こった犯罪。私の家庭で何が起こっていたのかを冷静に振り返りこれからの子供達を性的虐待から守ることが出来るのか、不幸にも私と同じ様な体験をしてしまった人達には何が必要かを考えて行きたいと思います。

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性虐待トラウマによる後遺症(PTSD)わたしの場合①

私は父親に幼稚園から中学まで性虐待を受けていました。子供にとって自分を扶養し、愛情を与えてくれるはずの立場の人から虐待を受けてしまうと、その時ばかりか大人になっても長い間後遺症に苦しむことになります。

 

私も例外ではなくヒステリック、摂食障害、うつ病、フラッシュバックとPTSDに悩むことになりました。

 

 

再生

高校に進学して環境が一変しました。今までの友達は同じ高校には進学せず私は新生活をスタートさせました。

 

「メソメソしないで前を向いて歩きなさい!」
「悲しい事があっても笑顔でいなさい」と小さな頃から教えてくれていた母親の言葉を思い出しました。
泣き疲れた鏡の中の私はブスがよりブスになっていました。不幸そうな暗い顔。無理矢理笑って見せましたが、その顔は口がへの字のまま引きつったいびつな笑顔でした。周りの人に私の暗い部分を知られないために笑顔の練習をしました。割り箸を横にくわえて口角を上げる練習を毎日鏡に向かってしました。猫背になってどんよりうつむいて歩くのをやめるために、意識をして顎を上げ、前を向くように努めました。

 

親から離れて生活するためには、私の世界を作らなければいけない。どんなに辛くても苦しくても、夜になりまた明日がくる。生と死のどちらかしか選択肢がないのだから、死を選べない私は当然残された「生きること」から逃げられない。父親のことは大嫌い! あんな汚い人に自分の人生を狂わされてたまるものか! 殺してやりたいけど、殺したら私が刑務所に入れられてそんなのおかしな話だ!そんな馬鹿なことはするな!と言い聞かせ、私は前を向く決心をしました。所詮、親も他人。自分ではないのだから私がどんなに傷つこうとわかりっこない。事実、あの時以来、そのことには一度も触れることなく何事もなかったように、以前と変わらず母親は父親を慕っている。母親から辛そうな様子はまったく感じられませんでした。

 

そんな母親に私も明るく接するように努めました。このまま私さえ我慢すれば、周りの人に気づかれることはない。私は不幸を他人に知られてはいけないと思い、精一杯の強がりの笑顔で元気な自分を演じながら一日一日を消化していきました。

 

高校一年の終わりに友達の紹介で彼氏ができました。私は父親の行為がどこまでのことだったのか、確かめるためにセックスをしました。本当ならこの人が初めての人になるはずだったんだなぁ、と私の処女は父親に奪われていたことを自覚し、彼には以前に付き合っていた彼が初めてだった、と嘘を言いました。現実がわかってしまった悲しみと共に、父親以外の人とセックスをすることで普通の女の子に少し近づけたような安心感もありました。


笑顔も自然に作れるようになりました。高校を卒業するまで3年間、この家での生活を我慢すれば自由になれる、と自分に言い聞かせて、なんとか卒業まで通うことができました。

 

卒業と同時に大阪で一人暮らしを始めました。大阪に出た私は職安に行き、美容室に就職が決まりました。高校卒業してすぐの4月に、就職先も決めず面接に来た得体の知れない私をとやかく事情を聞くこともなく、快く雇って下さったオーナーに感謝します。

 

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バブル真っ只中で、美容院はお客様で連日ゴタ替えしていて、朝から夜まで忙しく働き、営業時間が終わってから技術の勉強や練習を夜中までして、一日があっという間に終わり、週に一度の休みも普段の疲れから昼まで寝て、夕方に起き夕食を食べてまた寝るという生活になりました。

 

父親のことを悩む時間も減っていきました。


一人暮らしをはじめてすぐに身長156センチ48キロあった体重は一気に40キロを切るまでになりました。過食しては吐く摂食障害になりました。摂食障害は子供の頃、性虐待を受けていたトラウマの後遺症(PTSD)の一つであることを最近知りましたが、当初はそんなこととは知らず仕事のストレスか何かだと思い込んでいたのと、つきあっていた彼(後の旦那さん)が極端に細い女性がタイプで、痩せたことに喜んでいたことなどもあり、病院に行く事もせず、慌ただしい毎日に自分の身体を気遣う余裕もありませんでした。二年間くらい摂食障害の症状は続きました。

 

確かにこの頃は骨と皮だけのような見た目になり、病気にかかりやすい体質になってしまっていたと思います。よく熱を出していました。


でも私には、そのくらい急激な環境の変化が必要だったのだと思います。県外に出て仕事をして自分の力で生活をしないといけない環境に自分自身を追い込むことで、必然的にいろいろと考える時間がなくなりました。父親とのことを毎日忘れることはできませんでしたが、少しづつ過去のことにはなっていきました。

 

彼とは週に二回程のペースで会っていましたが、会うと喧嘩ばかりしていました。私が彼の気持ちを信用しきれず不安になり、相手の気持ちを逆なでするようにワガママを言って、応えてくれないことにヒステリックになっていました。そのことがいちばんの喧嘩の原因だったと思います。今になれば冷静に自分の悪いところもわかるのですが、当時はそのことに気づくことができず、彼には申し訳なかったと思います。

 

お正月休み、お盆休みには実家に帰りました。実家に帰り、父親の顔をみると気持ち悪く思いましたが、母親に会うことは嬉しく、いろいろな大阪での仕事や私生活の話をしました。父親には相変わらず笑顔で自分の気持ちを隠し、明るい娘を演じ続けました。父親の機嫌を損ねないように話を適当に合わせることもできるようになりました。


二十歳

その頃、父親から母親伝いで手紙をもらいました。内容はわたしに対する謝罪の手紙でした。わたしが可愛かったのでいきすぎた愛情表現をしてしっまた。と書いてありました。
詳しい内容は書かれていなかったので、なんかはぐらかされているようで、納得のいくものではありませんでした。

 

それでも許そうと思いました。恨み続けることは、そのことをずっと忘れないことになると思いました。許せば忘れる事ができるのかと…相変わらず演技で笑っていましたが、許そうと思い出した頃から、父親のことが少しかわいそうに思えてきました。

 

間違ったことをしてしまった父親も、私と同じように悩み苦しんだのではないかと考えるようになりました。
母親も苦しみながらも毎日忘れたふりをして、私のように普通を演じていいるのではないかと思うようになっていきました。


そんな風に考えるようになり、少し心が救われました。自殺願望はありながらも生きてることが少しだけ許されるような気がしました。

 

私は二十歳で結婚をしました。

あたたかい家庭に小さい頃から憧れがあり、結婚願望は強かったと思います。

 

主体性のない母親を見ながら育ったので、そんな女性にはなりたくないと思いながらも、夫婦生活は女性が我慢することが当たり前だ、と思ってしまっていました。不満はたくさんありましたが、良い妻であるように私なりに精一杯努力しました。 

 

たまに見せるヒステリックな私に(普通の神経の持ち主夫だときっと困惑させたと思いますが)人の事を気にするタイプでない夫は知らぬ顔で無視をしてくれていました。へこたれない夫で助かりました、笑。

 

相手の気持ちを気にするタイプの男性でしたら私のヒステリックに耐えかねて、結婚生活は一年と持たなかったと思います。

 

結婚二年目に男の子、さらに二年後に女の子が産まれました。子供の母親になり、子供に必要にされることで、初めて生きたいと思いました。自分の命を、子供達の為に大切にしようと思いました。こんな醜い私でも子供達は私を好きだと言ってくれたことが人生の励みになり、子供達を責任を持って育てることが人生のぶれない軸となりました。子供達がいなければ自分を見失い今まで生きていた自信はありません。

 

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私は子供達にニ、三度、しつけと言いながら手を挙げたことがあります。その時の感情は子供のためのしつけというより、自分の言うことを聞かないことに腹が立ち、気がつくと手を挙げていたと言う感情の方が大きかったと思います。すべての人がそうとは思いませんが、子供に体罰を与えるときは、そんな親の自己中心的な自分の苛立つ感情を抑えられず、幼稚な部分が子供に向けられていることがほとんどなんだと気がつきました。

 

私の父親も母親も、すごく弱い人間だったと気がつくことで反面教師にし、それ以来、子供に手を挙げることはしませんでした。腹が立ち、感情的になりそうな時は大きく深呼吸することを心がけました。それでもやはり子育ては大変なもので、全然思うようにはいかず声を荒げることもありましたが、私には反面教師がいるお陰で、まずは子供の立場でどうして言うことが聞けないのか、子供の気持ちを考えることを心がける大切さに気づくことができました。


子供の頃の理不尽な経験は悪いことばかりではありません。子育てに悩んだ時は自分の辛かった経験を思い出して、それと反対のことをすればいいのですから、笑。

 

でも残念な事ですが、負の連鎖は必ずあると思います。でも負の度合いを減らすことは可能だと思います。

 

私は三十歳からうつ病になってしまいました。それから二年間は子供のことがおろそかになっていたと思います。寂しい思いをさせてしまったと反省しています。私がうつ病になってしまったことで、離婚をしてしまいました。子供には大きなショックを与えてしまい、負担をかけてしまったことが次の世代に繋いでしまった私の家庭の負の連鎖だと思います。

 

 

 

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