性的虐待‥性虐待はなぜ起きる

私は実父親に幼稚園から中学2年まで性虐待を受けて育ちました。一見普通に見える家庭内で起こった犯罪。私の家庭で何が起こっていたのかを冷静に振り返りこれからの子供達を性的虐待から守ることが出来るのか、不幸にも私と同じ様な体験をしてしまった人達には何が必要かを考えて行きたいと思います。

ブログに訪れた方はまずこちらをご覧下さい。

30年間理解がなかった母親が理解ある母親に変わる為に必要だったこと①

【この記事は母親へ理解を求めていつかは自分を産んでくれた母親なのだから私の痛みをわかってくれるはずと頑張っていた頃に書いたものです。性虐待から乗り越える為の大切な過程としてこの記事を残します。1年近くかけて話し合った結果、私の望む母親像は彼女の中にはありませんでした。残念な事ですが、被害を打ち明けた14歳の時に守ってくれなかった時点でその事は証明されていたのに、私自身が受け入れるのに30年もかかってしまったようです。どうか娘から家族の中に加害者がいる事を打ち明けられた時は全力で娘さんを守ってあげて下さい。どうにか取り繕って家族を続けていけるのではないのかという甘い考えは捨てて下さい。打ち明けた時の周りの大人の対応でその後の被害者の心の回復は大きく変わってきます】

 

 

 

七十一歳になる母親は、徳島県の田舎町に四番目の子として産まれました。

 

上の三人は男の子で初めての女の子だったので、両親からすごく大切に育てられたと聞いています。小さい頃から日本舞踊を習わせてもらってました。真面目で、清楚な感じの女の子だったのでしょう。地元の大学を出て教員免許を取り、今から社会に出るという時にお見合いをして、そのまま結婚してしまいました。

 

 f:id:kaoagete:20170223184631j:image

社会に出たことのない母親は、すべてを父親に依存していました。金銭面もですけど、自分のふるまいや考え方、すべてを父親のいう通りにすることが良い奥さんだと信じて、実行していました。

 

父親に叩かれることがあっても父親のことを悪く言ったことはありません。自分に足りないところがあるから怒られているのだと思い、従うことで、自分の居場所を確保している感じでした。自分の親にも愚痴を言う事は一度もありませんでした。心配をかけてはいけないと思い、当時は何も言えなかったと言っていました。

 

子育てに対しても、父親のいう事をすべて実行していました。本当の母親の性格は優しく、人に手をあげたりするタイプではありませんが、父親に洗脳されていた母親は、父親と同じく言うことを聞かなければ、私に体罰をしていました。

 

無視もありました。とにかく些細なことでも思い通りにいかなければ、ヒステリーを起こしていました。仕事に出ることは父親から止められていましたので、教員免許を持ちながらも専業主婦でした。

 

自分に経済力が無かったことで本当に気の毒な人生だったと思います。

 

今現在は地域の行事やイベントのお手伝いしたりしています。愚痴を言わずに裏方に徹するタイプです。結婚相手が優しい男性なら、彼女は本当に立派な、優しい母親になれていたと思います。

 

二十代、三十代の頃の父親は、傲慢で理不尽な人でした。自分の思い通りにならなければ切れて怒鳴る、暴力をふるう。今思うと「かんしゃく持ちの子供」です。仕事のストレスを、すべて私達に向けていたのでしょう。当時、私は子供だったので、そんな父親でも大人にみえていました。

 

今、46歳の私は、当時の父親より年上になっているからでしょうか。父親を思い出すと、笑っちゃうくらい幼かったように思います。子供が親の年齢を追い抜くのです。

 

そう思うと、どうしてあの時はあんなことしたの? どうして? どうして? の堂々めぐりから、解放されました。

 

どうして?とか理由などはなく、ただ父親は自分の気持ちの切り替えができない子供、子供なので愛し方がわからず、まだまだ自分がいちばんに愛されたい。愛情を独占したい子供、いたって簡単な答えでした。

 

親はいつも自分の前に立ちはだかる人生の先輩じゃないことだってあるんです。

 

虐待をうけてた頃はあんなに怖かったのに(笑)

あんまりいうとまた怒られてしまうので、このくらいにしておきます。

 

でも、外面は違うようです。地方の一流企業で、それなりに昇進して頑張っていました。人徳があるように喋ることが得意です。地元のお寺を立て直す時には何百万もの大金を寄付したりして、周囲からは「素晴らしいお父さんですね!」といわれます。その度に私は心の中で、(みんな本当の事知らないもんなー)と思ってしまいますが(*´Д`*)

 

母親が性虐待の事を知ったのは、私が中学二年のときです。どうしても耐えられなくなり、母親に救いを求めました。中学ニ年の私は身体の造りも、名称もわからず、女性には尿が出るところと便が出るところの間に赤ちゃんが産まれてくるところがあることすら、自分では確認できていない子供でした。

 

父親にされていることも、実際に見たわけではないし、膣に挿入されているのがどんな状態なのかもわからないし、どう伝えたらよいのかもわからなかったけど、できる限りの言葉を一生懸命伝え、助けを求めました。

 

しかし母親にとっても父親が絶対だったので、信じることが出来なかったのか、私に他言しないようにと言いました。父親を許し、忘れるように、お父さんはゆかりが可愛くってした行動だったのだろう、と父親を擁護する言葉でした。

 

私も母親を裏切り、悲しませていることはわかっていたので、母親を責めることもできず、離婚して守って欲しかったけど、母親にハッキリと父親とは離婚する気はないと言われ、仕方ないことだ、自分が我慢するしかないんだ、と諦めました。

 

事実を知ってしまった母親を心配しましたが、母親はすぐにいつもと変わらない生活に戻りました。ホッとする反面、どうしてこんな重大なことなのに普通にしていられるのかと、失望と腹立たしい気持ちで、私の心はさらに荒れていきました。

 

二十歳の頃、父親から母親伝いに謝りの手紙を貰いました。その時母親は「私も読ませてもらったけど、お父さんも悪かったと言ってるんだから許してあげなさい」と言いました。私はもう自分が我慢するしかないと諦めていましたので「わかった。もういい」と手紙を突き返しました。

 

私は三十歳でうつ病になりました。すべてのことに無気力になりました。虐待をうけてから、ずっと一人の時間が苦手で、仕事が休みの日は何かと予定を詰め込みました。予定がない日は自然と過去の事を思い出してしまい、涙が溢れ出し、死にたいとネガテイブになることへ心が耐えられなくなっていき、結婚生活にも行き詰まり、どうすることもできない精神状態になってしまいました。

 

私はまた母親に相談しました。「どうしても過去に囚われてしまい、前に進めない。初めての相手が実の父だということが許せない」

 

手紙を受け取ったとき以来、十年ぶりにその話題を口にしたと思います。

 

その時の母親は驚いた様子で「そんな大変なことをお父さんはあなたにしたの?  お母さんのできる精一杯の罪滅ぼしとして、あなたと孫たちのためにこれからの生涯を捧げさせて欲しい。でも今は、お父さんが会社で大切なプロジェクトに携わっているから、後、数年待って欲しい。それからは別居する」と言い、私に謝りました。

 

私はたぶんうつ病なので、病院へ連れて行って欲しい、とお願いしましたが、母親は「うつ病は気持ちの持ちようだから、しっかりしなさい」と言われてしまいました。

 

でも後、数年我慢したら、少しは母親が行動を起こしてくれる。今よりは何かが変わり、気持ちも少しは晴れるのだろう、とこの時も私は、母親の言葉に従い、自分自身に頑張るのよ、と言い聞かせて何とかやり過ごしました。

 

離婚して、仕事も行かずに一年間家にいました。その間の生活費は父親がみてくれました。

 

寝られない夜も少しずつ減り、一年経ち、美容室の支店長をして欲しいとお話しを頂き、仕事に復帰しました。環境が変わり、うつ病も回復していき、仕事へのやり甲斐を感じられるようになっていきました。

 

母親はその後何年たっても何の行動もなく、私が四十歳になった頃、あの話はいつになるのか、と聞きました。その頃は父親も定年していたので、仕事のために待って欲しいとは言われないだろうと思い、思い切って聞いてみました。

 

母親からの返事は「お父さんと今更離れる気持ちは全然ない」でした。

 

その頃も少なくうつ病は治ったものの、相変わらず一人でいることが不安で、休みの日は子供が学校から帰って来るまで、一日中外で過ごし、予定がない日は自殺願望とネガテイブな自分との戦いでした。

 

父親と縁を切ることは、母親とも縁を切ることなんだろうと思っていましたから、自分から強くも言い出せず、やはり私が我慢するしかないのだと諦めました。四十歳にもなって母親の愛情を欲しがる私は子供なのでしょうか?

 

でもその頃から、親の愛情を求めることは叶わないことなのだから諦めよう、そのことに悩み時間を使うのではなく、私の受けていた性虐待を公表することで、今後被害者を減らすお手伝いに時間を使おう、と思うようになっていきました。

 

それによって親と決別するようなことになっても、それも私に課せられた運命ととらえよう。親に理解を求めてもどうにもならないのなら、自分が変わるしかない、と思い、過去を振り返り、どこで間違ってしまったのか、自分を知らなければ、と勇気を持つように努力しました。

 

一度にたくさん思い出すことは精神的に無理ですが、少しずつ調子のいい時に振り返り、文書に書き起こしていきました。思い出していくうちに苦しみが増し、涙が止まらず、嗚咽を漏らしながら泣く日もありました。

 

少しづつですが、いろいろ見つめ直すうちに、自分が悪かったのではない、と自己否定から自己肯定へ考えが変わっていくことに気がつきました。

 

死にたいと思う気持ちが全くなくなったとは言えませんが、生きていても許されるような気持ちが湧いてきました。

 

母親は本当は優しい人で、父親以外の男性と結婚していたなら、良い奥さんであり、母親だったと思います。父親により人生をめちゃくちゃにされたという点では、私と同じ被害者なのです。

 

私が被害を公表することで、母親も父親と同じ罪人になるのは可哀想で、私は母親のこれからの人生を責任をもって引き受ける覚悟で、もう一度、母親に話をしてみようと思いました。

 

でもこの考えはすごく甘かった。今まで未練がましく母親に愛情を求めていた気持ちが、まったくなくなりました。絶望と蔑みの感情を抱くことになりました。

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

このブログへのご質問お問い合わせなどお気軽に

beso0201@icloud.comまでメールをよろしくお願いします。

 

 

 

 

虐待の残す傷

私は幼稚園から中学ニ年まで、実の父親から性虐待をうけていました。

 

幼稚園の頃は、局部を触られることにくすぐったいから嫌だと思うだけで、それがどんな意味のあることなのか、わからずにいました。本当の意味を知ったのは中学ニ年の頃で、その時にはすでに最後の一線も越えていました。私の初めての相手は父親でした。

 

みんなしていることだと父親から言われていたことと、いつも怖い父親がその時はやさしいことからこれで良いのだと思っていました。

 

嫌だけど、しつけだといっていつも怒鳴られ、頭をバシバシ叩かれたりしていたので、このこともそれの延長くらいに思っていました。父親のすること、言うことは絶対の支配下で育った私は仕方ないことだと思っていました。友達は父親のことが嫌いじゃなさそうなので、私も嫌ってはいけないと思って、少しでも好きになれるように努力しました。

 

母親に父親のことが好きじゃないと、何度も言いましたが「誰のおかげで学校に通えたり、ご飯を食べれたりしてると思ってるの? ちゃんとお父さんに感謝しなさい」と、いつも私が悪者でした。

 

虐待が行われていた最中も「お父さん、好き」と言わされていました。嫌々ながらでも私の身体は少しづつ受け入れるように成長していきました。その当時、父親はすごく満足そうで幸せそうでした。

 

父親を喜ばすことができていることに、私も幸せに感じたことも正直ありました。感謝の気持ちをこのことで伝え、見返りに愛を与えられているような気持ちだったと思います。

 

今思うと、当時の自分があまりにも健気で可哀想で、涙が溢れますT^T  

 

父親からの幼い頃からの性虐待の裏には、こんな捻じ曲がった感情が存在します。

 

だから余計に事の真相を知った時、自分を嫌い、蔑むようになります。受け入れていた自分を殺したいと思います。当時は情報がなく、自殺は刃物で刺すか、首吊りか飛び降り、線路に飛び込むくらいしか思いつきませんでした。いちばん痛くなさそうなのは飛び降りなのか、と思ってみたり。リストカットをしてみても静脈を切れない。どれも私には恐ろしく、行動する勇気がありませんでした。。

 

幸せになることも許されないように思いました。こんな汚れた私を好きになってくれる人なんかいるわけないから結婚もできない、こんな汚れた身体で妊娠してしまっては赤ちゃんが汚れてしまうから、自分の子供も持つことができない。そんな未来がすべて奪われた失望感でいっぱいになりました。

 

三十年経った今でも「生きたいか?死にたいか?」と質問されると安楽死ができるのなら「死」を選ぶかも。死ぬ覚悟で逃げなかった自分を、いまだに心の何処かで責め続けてます。どんな幼い頃の自分に「あなたは悪くなかったのよ。逃げなかったんじゃなく、逃げられなかったのよ」と言ってはみるものの・・・

 

今現在は幸せなはずなのになぁ・・・

 

 加害者の父親はというと、ずっと俺様は変わらずですし、私には一度、二十歳の頃、謝罪の手紙を母親伝いでくれましたが、その内容は薄っぺらく、その後は何もありません。

 

それどころか、私の娘が小学生の頃、「オジィちゃんにお腹の辺りを寝ているとき触られた」と私に言ってきました。娘も何かおかしいと感じたから、私に言ってきたのだと思います。反省するどころか、また私の娘にもあわよくば、と思ってしまったみたいです。

 

そんな一面の裏に、社会の為にといろんな市のことに首を突っこんでボランティア活動をしてみたり、お寺を立て直すと聞けば大金を寄付してみたりと、人の為になることもします。

呆れるほど本当に内弁慶で弱い人間です。

 

自分ではゆかりと同意の上だから仕方なかったんだと思いこみ、正当化しているのだと思います。自分も伯母さんからそんなことをされていたと言っていたので、血縁者同士の関係は特別なことではないと、本気で思っているのかも。

 

 加害者と被害者の気持ちには大きなズレがあります。それがまた後々まで被害者を傷つける。常に親という立場で、この人には死ぬまで私を傷つけ続けるのだと思うと、お願いだから早く死んでと思ってしまいます。

 

私は離婚してからも姓を戻していません。それを数年前に父親から、「別れた夫に未練があって戻さないのか?もうそろそろ戻してくれ」と頼まれました。私は一人娘なので、普通の親ならそう願うでしょうし、普通の娘なら子供達ももう大人なのだから話をして戻した方が良いと思うでしょう。

 

でも私は「あんたと同じ姓になりたくないから戻さんのよ!」と言いたかった。どうしてそんなことも分からずに平気で姓を戻せと言えるのか気がしれません。親を傷つけたくないから笑って「またボチボチに考えるね」とか返事をしてしまいます。

 

私は京都のとあるお寺のお坊さんに相談に行ったことがあります。自分の受けてきたことを話し、私は一人娘なのに姓を戻すことができない。これは間違ったことなのか。親不孝者なのか。戻さないことで子供達に悪い影響はないのかとか尋ねました。

 

お坊さんはひと言、「戻す必要はない」とおっしゃいました。あなたはあなたの考えで今後も進んでいきなさい、自分が頑張ろうと思うことに全力を尽くしなさい。と背中を押してくれました。嬉しかったです。私は堂々と生きていいのだと生きることを許された気持ちになりました。

 

自分にとっては些細なことでも、被害者にとっては深く傷つくことがそこら中にあります。

被害者の心は地雷だらけで、心の中で何発も爆発させられ、血まみれになりながらも周りに見せないように歯を食いしばり痛みに耐え続けて、また治りかけてきたら次の地雷を踏まれて。誰かに地雷の撤去作業を手伝って欲しい(あまりにも地雷の数が多すぎて自分一人じゃ何年かかっても取り除き切るのは無理だょーー)

 

でも人間とは凄いものでどんなに辛く忘れられない出来事でも少しづつ少しづつ記憶が薄れていきます。毎日思い出していたことが二日に一度になり、三日に一度になり、一週間に一度になり、思い出した時の心の痛みも少しづつ少しづつ薄れていきます。

 

今、現在苦しみの中で死にたいと願う方がこのブログを読んでいるのであれば、信じて下さい。間違いなく今日の自分より一ヶ月後の自分、一ヶ月後の自分より一年後の自分、一年後の自分より五年後の自分と悲しみが薄れていき、楽しいことも感じられるようになっていきます。

 

だから生きて下さい。死なないで下さい。お願いしますね。あなたは一人ではありません。かと言っても忘れることはできませんでしたが、幸せを感じられることもできるようになっていきます。

 

私は一生懸命、母親に言われていたこともあり父親を許す努力をしました。三十年経って、身体的虐待や心理的虐待については、親もどう子供に接したらいいのかわからなかったのだろうと、ある程度は許すことができましたが、性的虐待に関しては、どうしても理解することができず、許すことできません。許さなければと思うことで余計に苦しみました。最近まで笑顔で父親と接してきました。

 

長い間、自分の気持ちに嘘をつき、素直な娘を装ってきましたが、作り笑いがバカバカしくなり、やめた途端に気持ちが楽になり、今は目を合わすこともしなくなりました。やっと父親の支配から抜け出し、晴れ晴れとした気持ちになりました。

 

自分のただ一人の父親だから許して、これからも娘として接しなければならない、と勝手に自分を追いこんでいました。そんなことは必要なかったんです。

 

血が繋がっていることで娘でいなければいけないなんて、誰にも強制されるものではなく、自分が誰を父親と思うのかが大切、親を他人だと思うことも選択肢にあり、逆に血の繋がりがりがない人を父親のように慕うことでもなんら構わない、と考え方を変えました。

 

これからもまた気持ちの変化はあるかも知れませんが、もう自分に無理をするのはやめることにしました。

f:id:kaoagete:20170216154124j:image

相手がよっぽど謝ってきて、その言葉を自然に受け入れることができたときに、また親子になればよし!とすることにします。

 

罪を償ってもない犯罪者に、気を遣う必要なんてないのに、親子って本当に厄介です。犯罪者でも唯一の父親なんですよね。そんな関係者を踏みにじってるのだから、殺人くらい重い罪にするべきだど思います。

 

これからの日本が児童虐待に理解ある国に変わっていきますように・・・

 

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

 

このブログへのご質問お問い合わせなどお気軽に

beso0201@icloud.comまでメールをいただけたら嬉しいです。

 

 

 

 

 

毒親にならないために

私の勝手な自論です。サラッと聞き流していただけるとありがたいです。

 f:id:kaoagete:20170210151919j:image

毒親に育てられると、連鎖で知らず知らずに毒親になってしまうと言います。幼い頃から虐待が日常的にあった子供は普通の家庭を知らないんですから、当然の事だと思います。

 

両親が生まれて間もない頃、何らかの理由で片親になってしまうと、片親が当たり前で、両親の揃った家庭がわからないのと一緒です。

 

子供はこれが普通なんだ、と理解しようとすると思います。怒鳴られたり叩かれたり、体罰のない家庭がある事が、逆に不思議に思います。どんなに自分は頑張ってみても叱られる。叱られないコは凄く賢い、素直な子に違いない。私の態度がいけないのだ。もっと賢く素直な良い子にならないといけないと思うはずです。

 

でも子供はそんな安らぎのない生活に、悲しい気持ちを持って行く場所がなくカンシャクを起こしたり、自分でも怒られるまた叩かれる、とわかっていても、湧き上がる寂しさを抑えきれず、かまって欲しいがために無理な事を言い駄々をこねたりしてしまいます。それでまた余計に怒られて。永遠に終わりのない負のスパイラルに陥ります。

 

そんな毒親にやっと気がつくのは思春期に入った中学生くらいです。

 

自分の親が普通じゃなかったんだ。と気が付いても、なかなか幼い頃から受けてきた事は身体に染み付いてしまっていて、複雑にねじれた毒親からの洗脳は、そう簡単には取りのぞけません。

 

自分の親を毒親だとは信じたくないという感情も当然ありますよね。

 

恥ずかしいですが、私は幼稚園から中学生まで性虐待を受けていながら40歳になるまで、親の事を周りの人に悪く言われることに頭ではわかっていながら、腹立たしさを感じていました。

 

 身体的虐待、心理的虐待、性的虐待の中を過ごした私でも、なんとなく子供達は成人を迎え、無事に巣立っていきました。子供が男の子8歳、女の子6歳で離婚して、それからは隣の実家に住む母親の協力で仕事をしながら、手探りの毎日でした。(母親は孫達にはすごく優しく接してくれました)

 

私の子育ての基準は『もし親が選べるとしたらこの人の子供に産まれたい』と思えるような親になろう!です。

 

育児で悩んだ時、これに当てはめると大概、どうにかなりました。人に迷惑をかける事、危険な事以外のことはできるだけ見守りながら、怒らないようにしました。

 

子供は親の行動をしっかり見ているので、子供にどうこう叱るより自分の行動に気をつけるように、恥ずかしくない行動を心掛けました。(当時はこれで大丈夫なのかとすごく不安でした。甘すぎなのかと心配しました。私の育った環境とは180°違うかったので( ̄ー ̄))

 

ゲームもダメとは言ったことはありませんでした。(お兄ちゃんは高校受験の前日にも友達呼んでゲームをしていました。さすがにこれには感心しました。すごい度胸だ!)勉強もしなさいとは、一度も言いませんでした。親が言わないと子供は逆に不安になるみたいで、困らない程度に自分で計画してしていたみたいです。

 

私が受けた子育てはがんじがらめにすべてが決まっていました。朝起きる時間から始まり、テレビは1日30分。小学校のときの門限は5時。就寝は8時。ご飯はどんな理由があっても残さず食べる。ご飯の間はおならをしてはならない。トイレはもちろんダメ。ご飯の間でトイレ行くと、その時点でご飯は終わり。言い出したらきりがないくらい、してはダメなことがあり、これらのことを守らなければ怒鳴られる、叩かれる。もういいと許可が出るまでの正座。

 

そのほか体罰がありました。私にも守れないときはそれなりの理由がありましたが、理由など口に出すものならも一つひどい仕打ちが待っています。(父親だけは食事中もおならをしてもいいんです。男だから。今考えると馬鹿馬鹿しい)

 

これらすべてにおいて、反面教師として実行しました(笑)逆育児書です。

 

心に反面教師と決めていても自分の一時の感情でヒステリックに叱ってみたり、時には感情に任せで叩いてしまったり、親と同じ事をしてしまう場面もありました。そんな風に踏み外してしまうことがあっても、また自分の行動を改め、反省し、軸になるものに戻るように努力することを忘れなければ、極端にぶれることもないような気がします。子供達もグレることはなく、勉強も生活態度もいたって平均的な感じで特別、困ることはありませんでした。

 

男の子は高校卒業後、車の会社に就職しており、女の子は今現在、大学三年生です。来年は管理栄養士の資格試験を受けたいと言っています。(ねっ。いたって普通でしょ。ここでお医者様になりましたとかじゃないところがこの子育て参考にならんと思いますよね〜w)

 

頼りないこんな私でも、お母さんが親で良かった、と反抗期も終わり、言ってもらえるようになり、そこそこ間違ってなかったのかなって思えるようになりました。

 

このブログを読まれている方でちょっと子育てに悩んだとき、「ゆるぅーい感じの子育てでも案外どうにかなっていくんだなぁ」と思い出してみて下さい。

 

子供達の20歳までなんてあっという間です。20歳前後で家を出て別々に生活するようになることだってあるんです。1日のうち寝ている時間を除けば一緒に過ごす時間は4時間くらいでしょうか? そんな限られた時間なら、少しでも親子で笑い合う時間を多く過ごした方がお得だと私は思い、できるだけ怒った顔は子供に見せないようにしました。

 

母親はきちんとしつけしないと子供が世間に出て困るんじゃないかという責任感から、ついつい厳しい言い方をして、何としてでも言うことを聞かせようと、やっきになってしまいがちですが、言葉を選び、子供の言い分も聴きながら話し合った方が一見、時間はかかり、面倒に思えますが、結局は近道だったりすると感じました。

 

無理矢理圧力をかけ、言うことを聞かせても、得られるものは親の達成感だけのような気がします。

 

子育てとはひたすら我慢と忍耐なんだなぁ。とつくづく思います。

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

 

このブログへのご質問お問い合わせなどお気軽に

beso0201@icloud.comまでメールをお願いいたします。

 

 

 

 

1番の理解者だった祖母の死

先日、母方の祖母が亡くなりました。九十八歳でした。十年くらい前からアルツハイマーとなり、最後の一年間は寝たきりでした。

 

アルツハイマーになる前の祖母は、とても優しい穏やかな人でした。ずっと祖父を愛していると、可愛らしく言葉で伝える素直な人でした。

 f:id:kaoagete:20170210070722j:image

ゆかりは(子供の頃のわたし)はそんな祖母が大好きで、ゆかりのこともいつも「ゆかりは可愛いなぁ、ゆかりはおりこうさんじゃ」と頭を撫でながら、優しくゆかりを包んでくれていました。ゆかりの存在を肯定してくれる人とでした。

 

ゆかりはきついお粉の匂いが嫌だと思いながらも、祖母の隣は唯一安心できる場所でした。

 

祖母はゆかりが幼い頃、半年に一度くらいのペースで家に二、三日、泊まってくれていました。来る日がわかると指折り数えて心待ちにし、来た日は嬉しくって嬉しくって。でも来た瞬間から帰ってしまう日が悲しくって悲しくってどうしようもなかったのを覚えています。

祖母が家にいる間は、母もうれしそうで優しく、体罰はありませんでした。父親から怒鳴られても、祖母がかばってくれました。祖母がいる間は家の中も安心できる場所になりました。

 

祖母がいてくれてなかったら、ゆかりの幼少期はもっと辛く寂しいものだったと思います。

 

そんな大切な祖母に対しても、中学の反抗期には優しくしてあげれなかった。素直になることが出来なくなってしまいました。

 

唯一の理解者も、両親のお陰で汚い大人の仲間入りになってしまい、私は自ら心の壁をつくってしまいました。祖母に一生懸命、父親からの被害を伝えた言葉は、母親の根回しにより、私の夢の中のこととなってしまってました。

 

亡くなったと知らせを受け、車で1時間半のところに子供達と向かいました。

 

老衰で穏やかに天国に召されました。

 

ふくよかだった祖母はとても痩せていて、私は一人置いていかれたような気持ちになりました。子供の頃、ずっと一緒居たかったのに祖母は「おばあちゃんもずっとゆかりとおりたいけど、おじいちゃんが待ちよるから帰るわなあ」と言って、バスに乗ってしまいます。

 

私はいつも次はいつ来てくれるのか、何度も聞きました。今度も祖母は、おじいちゃんのいる天国に行ってしまいました。今回もゆかりは置いてけぼり。おばあちゃん!!私も一緒に連れってよ。私はゆかりに最後のお別れをするように促しました。自分でも思いがけない程、涙が溢れました。

 

ゆかりは最後にもう一度、祖母の温かい手で、頭を撫でて欲しかったと思います。

 

「ゆかりに安らかな時間をくれてありがとう。あの時間がなかったら、ゆかりの人生はもっと悲惨なものになっていたとおもうよ。ゆかりを助けてくれてありがとうね」と心の中で呟きました。

 

お通夜に、父親は来ませんでした。お陰で穏やかな気持ちで祖母をお見送りすることができました。

 

父親は告別式に合わせてやってきました。お寺の方のお経も終わり、祭壇に飾ってあるお花をみんなで棺の中に入れて火葬場へと見送り、火葬場の方の淡々とした説明を聞き、最後に祖母の顔を見ながらお別れを言いました。その間、父親は泣いていました。

 

私は父親の泣き顔を、私の記憶の中では初めて見ました。

 

祖母が汚されるようで、私は腹立たしく思いました。お前に泣く資格があるのか。大切な孫の女の部分を犯しておきながら。祖母が本当の事を理解できていたら、お前のことを許すはずがない。葬式に出てくれることも嫌に思うに違いないと思いました。

 

祖母なら全面的に私の味方でいてくれたはずだ、と思いたい。私の産まれてきた存在を肯定できる、最後の叶わない希望の、私の勝手な思い上がりです。

 

現実は、祖母も父親が私を犯していたと知ったところで何も変わらなかったと思います。母親と同じでなかったことにしていたことでしょう。

 

どうして昔の女性はそこまで弱く、自分を押し殺して生きているのか。我が子や孫を犠牲にしてまで守り続ける家庭に、何の価値があるのか私には理解できません。

 

おばあちゃん、迷わずにおじいちゃんのところに行ってね。私はもう少しこちらで頑張ってみようと思ってる。

 

私のような犠牲者がこれ以上増えないように、声を大にして「私は、父親により処女を奪われた被虐待児だ」と、言わなくては。

 

私は、今まで弱すぎたあなたたちの娘や孫としてあなたたちの分も強く生きたい・・・

 

ちなみに私の娘は、無茶苦茶強い意志を持った女性に育ちました。周りに翻弄されることなく自分のするべき事をしっかり見据え、大地を踏みしめて生きている感じがひしひしと伝わって来ます。二十歳そこそこの子には思えません。旦那さんになる人は大変だと思います。恐妻家間違いなし!(爆笑)

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

 

このブログへのご質問お問い合わせなどお気軽に

beso0201@icloud.comまでメールをお願いいたします。

 

 

たまには弱音を・・

このブログを見てくださってる方の中に、私と同じような境遇の方いらっしゃいますか?

いらっしゃったら直ぐにでも会いに行って、あなたと抱きしめ合いたいです。今まで辛いけど頑張ってきたよね。とお互いを讃え合いたい。本当にわかりあえ、癒し合えるのは、同じ境遇の方と話をすることのような気がします。

 

同じ境遇の人と愚痴り合えたらと、いつも思います。たくさんたくさん話しをして、たくさんたくさん悪口言って、たくさんたくさん泣いたら、そしたらこれも笑い話になるのかな。

 

クソ親で最低な子供時代だったよね〜でも本当の人生はこれからだよね。これから今までのぶん取り戻して楽しもうね。って素直に話し会えるのかな。一緒に戦っていこうね。て。

 f:id:kaoagete:20170210154758j:image

最近になり信用できる友達何人かに、過去のことを打ち明けました。人に話すこととトラウマは比例して軽くなっていきました。もっと早く話を聞いてもらっていたら良かったと心から思います。

 

でもいつも強がってる私がいます。本当は平気じゃないのに平気なふりして笑っています。普通に育ってきた人に100%弱みを見せれないと思うのか、相手に気を使うのか・・・多分、後者でしょうね。気持ち悪い思いをさせてるんじゃないのかなって思っちゃいます。

 

このブログだって本当にこんなこと書いてもいいのかな。みんな気持ち悪いって、気分害してるだけなんじゃないのかなって。

 

パートナーに相談するときも、またこの話もう聞きたくないわって思ってるんじゃないのかなって、心のどこかで思ってる自分がいます。

 

児童虐待には心理的虐待、身体的虐待、性的虐待、ネグレクトがありますが、どの虐待もあってはならないことで、あの虐待がこの虐待よりどうのこうのとは思ったこともないのですが、ただ、性的虐待は言葉に出して言うことがすでにタブーのようで辛い。

 

なんで被害者がこんなに後ろめたい気持ちにならないといけないの。悪いことしてないのにこんなに悪いことしてしまったような。心を殺されながらも、自分も殺人を犯して逃げ隠れしながら生きているような罪悪感。

 

毎朝、父親が今日も生きてるとわかったとき落胆する、嫌な自分。

 

 

早く引っ越ししよう。

 

近くにいるのはお互いに良くない。

 

おやすみなさい。

 

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

このブログへのご質問お問い合わせなどお気軽に

beso0201@icloud.comまでメールをお願いいたします。

 

 

 

 

被害者を増やさない為に

児童への性的虐待は、血縁者や顔見知りによるものが多いと報告されています。被害を受けている、もしくは受けていたことは口止めされていたり、周りに言うことで自分も恥ずかしい思いをしなくてはいけない、自分の大切な親や兄弟を傷つけてしまうなどの色々な理由から、言うことができません。

 

勇気を出して声にしても、信じて貰えなかったり、あなたも落ち度があったんじゃないかと言われてしまったり、ひどい場合はあなたが誘ったんじゃないの? と言われてとても悲しいことですが、これが今の日本だと思います。

 

そもそも身近にそんなことがあるわけがない。他人事だとたかをくくっている方がほとんどだと思います。

 

児童に対してそんな卑劣なことをする加害者は見た目も言動もおかしな人だから、気づくはずだと思っていませんか?

 

違うんです。社会的に地位もあり、地域にも密着していて、仏様のように崇められていたり、外面が良く、誰もが疑いもしない加害者もたくさんいるんです。

 

なので子供がやっとの思いで力を振り絞り、発した言葉も、呆気なくスルーされることがほとんどです。

 

子供は大人から気持ち悪いことをされたなどと嘘では言い出したりはしません。少しでもおかしいと思ったら話しをしっかり聞いてあげて下さいね。

 

一度言い出したことを嘘だった、と撤回したりすることもあると思いますが、それは恥ずかしさや家族を思いやる気持ちから、嘘だったと言っているだけで、本当のことです。

 

聞く側も、嘘であって欲しいと思うあまりに聞かなかったことにしがちだと思います。それでは後で取り返しのないことになってしまいますので、気持ちを強く持って、最新の注意を払いながら気をつけてあげて下さいm(__)m

  

子供は口には出さないけど、たくさんのサインを送っています。毎日一緒に生活している家族なら、生活の変化や言葉遣いの変化など気づけないわけがない、と思います。

 

それでも気づかないことがあるとしたら、何らかの理由から「気づきたくない気持ち」が先行しているのだと思います。客観的に子供の様子をみてあげることが必要だと思います。

f:id:kaoagete:20170202153935j:image

 

私が中学3年の春に体育の授業中、授業態度が悪いと体育専門の先生に注意されたんですね。

 

先生が「どうして宮本さんは最近、反抗的なの。後で体育教官室に来なさい!」って。

 

私は家庭のこと全部言ってしまおうか、先生に相談したら何かが変わるのかな。これが最初で最後のチャンスなのかも知れないって思いながら授業が終わり、教官室に行ったんです。先生と二人っきりで話しをすることなんてなかったですから。

 

あの時、家庭で何かあったのかと聞いてくれたかどうかは覚えていないんですけど、二言目には「あなた、やったでしょ!」って。私すごくビックリして、固まっちゃいました(・Д・)

 

やったって何を!? 何のこと言ってんの!?って慌てちゃって、何も言えないでいたら「二重の手術したでしょ!」って怒った口調で言うのです。 私、重度の花粉症で、目が痒くって真っ赤に瞼も腫れてて・・・それが先生には二重の手術の後遺症だと思ったみたいです。

 

もう、何も話す気になれず、涙しか出てきませんでした(。-_-。)  大人なんて、この世からいなくなればいい、と本気で思いました(T ^ T)

 

今、思い出すと笑っちゃいます(笑)ホント、タイミング悪すぎ!!!

 

こんな感じで私はますます反抗的になっていきました。

 

イヤイヤ!私でなくてもこんなにいろいろあったら反抗的になるでしょー(ーー;)

 

なると思われた方パチパチ👏ボタン連打お願いします〜

 

ってナイナイ。

 

 

 

 

我が子が児童性虐待の被害者にあってしまったら

f:id:kaoagete:20170201112730j:image

我が子から性虐待の被害を告げられると、大抵の母親はパニックになってしまい、冷静な判断が出来なくなり、勇気を出して相談してきた我が子をさらに傷つける発言をしてしまうことが多々あるみたいです。

 

ましてや加害者が夫(内縁の夫も含む)や我が子(被害者の兄弟)であった場合は相談を受けた母親に冷静な判断を求めるのは、もはや無理なことのような気さえします。

 

私の母親も、加害者の父親を擁護する返事でした。口止めされ、更に加害者を許すように促されました。

 

そんな対応が被害者を更に傷つけ、長い間抜け出せない心の闇に追い込むことになります。

 

被害を告げられたら、まずは専門機関の方々に相談するのが私は一番だと思います。

 

秘密厳守で聞いてくださる事を忘れないで下さい。外に相談内容が漏れることを恐れる気持ちはすごくわかりますが、そんなことを心配をする気持ちの余裕があるなら、我が子の命の心配をしてあげて下さいね。

 

相談する時まで生きていてくれたことが、あなたにとって幸運なことです。被害を告げられたときあなたは「何で一生懸命、母親をしてるのにこんなに不幸な目に遭わなくちゃいけないの」と思うかもしれませんが、あなたは不幸ではないのです。我が子は生きてくれています。

 

動物は思いがけないトラブルに見舞われた時、自分を守ることが真っ先に立つと思いますが、私達は人間です。伝える言葉を持っています。そのことを忘れず、加害者が夫である場合はもちろんあなたも被害者ですが、誰が一番の被害者なのか、何を優先に守らないといけないのかを自分の責任の部分も含め、冷静に考えて欲しいです。

 

他人に自分の恥ずかしいことや惨めなこと、自分の弱い部分を見せられる人はとても強い人だと思います。

 

子供の話に耳を傾け、自分の感情を子供にぶつけることは決してしない下さい。否定をせず、信じてあげてください。あなたへの信用を裏切ることがない判断をお願いします。

 

辛く受け入れ難い事ですが、あなた以上に子供が傷ついていることを忘れないであげて下さい。

 

あなたの対応が、被害者のこれからの人生においていちばん重要です。受けてしまった過去を変えることは誰にもできませんが、傷を癒してあげることはできると思います。

 

私の母親は「あの時は生活費をいちばんに心配した。父親がいなくなれば、あなたが生きていけないと思った」と言ってました。

 

時給800円1日12時間ひと月25日働くと月24万になります。そんな計算も母親はしてないんでしょうね。私には母親の言葉は自分の生活を守るだけの言い訳にしか聞こえません。・°°・(>_<)・°°・。

 

言い訳するならもっともらしい言い訳を考えてしてくれ〜

 

f:id:kaoagete:20170201140839j:image

 

性虐待で傷つききっている傷口にさらに塩をぬるような言動、行動は・・・

 

 

強くなってください。

 

お願いします。

 

 

あなたも専門家の方の治療を娘さんと一緒に受けて自分を癒してあげて下さいね。お辛いとは思いますが頑張ってくだいね。

 

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

 

このブログへのご質問お問い合わせなどお気軽に

beso0201@icloud.comまでメールをお願いいたします。